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幕府海軍創設時の軍艦は他国で使用されていた中古老朽艦、もしくはコルベット級(軽巡クラス)の小型艦のみで幕府は列強国の大型艦と互角に戦える協力な軍艦を必要としていました、1862年幕府は排水量3000t未満、蒸気機関で推進する砲20門以上搭載の軍艦をオランダに発注します、当初オランダは装甲艦を推選しましたが幕府は一刻も早い完成を願い木造艦で依頼しています、それにより建造されたのが幕府海軍旗艦「開揚丸」です、開揚丸は1863年に起工され2年後の1865年には進水されました、基準排水量は2590t、全長73mで建造されたオランダでもこれだけの大型船は珍しく進水式には多数の市民が詰め寄せたそうです。 | ||||
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開揚丸の船体と性能 | ||||
開揚丸の艦級はフリゲート級艦でフリゲート艦とは戦闘巡洋艦、巡洋戦艦などです、列強海軍保有国においてフリゲート艦は戦列艦にまでは及ばずとも主力艦に位置づけられています。 | ||||
開揚丸の大きさは前に述べた通り排水量2590t、全長73mと堂々たる軍艦で推進力は主に3本のマストによる帆走ですがスクリュー機走により1200hp、12ノットを発揮します、時速にして22kmと帆走船に劣らない速力です(当時はまだ汽船の方が遅かった)。 開揚丸は船体水線以下(海面以下)の箇所に銅版が打ちつけられています、装甲とは異なりますが強固な造りと成っています。 |
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開揚丸の搭載砲 | ||||
(船体側面に並べられた13門の砲) | ||||
開揚丸の搭載砲は両弦側に13門づつの計26門で船体内部に大砲用の甲板を設け上甲板の真下側面に並べらていました、それら砲は大砲メーカーとして当時信頼の高いクリップ社製のライフル砲18門とそれ以外は同クリップ社製の滑腔砲(ライフルの無い砲)です。 | ||||
開揚丸の沈む海底調査により記録に無いダールグレン滑腔砲9門が発見されています、ダールグレン砲は砲身後部の肉厚の太いビール瓶の様な砲で後部の肉厚を太くする事により発砲時の火薬を多く詰められる破壊力の高い大砲です、大よそそれらダールグレン砲は戊辰戦争時に新政府に引き渡された装甲艦「甲鉄」と一戦交える為に追加されたのでしょう。 | ||||
(甲板上に追加配備されたダールグレン滑腔砲) | ||||
追加されたダールグレン砲は甲板上両側面に4門づつ計8門配置され残り1門は艦首方向へ向けられていたと考えられています。 | ||||
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開揚丸の艦歴 | ||||
1862年、開揚丸の発注と同時に幕府は軍艦引取りを兼ねて15名の留学生を派遣します、その留学生の中には後の幕府海軍の指揮官「榎本武揚」も含まれていました。 1866年、開揚丸が完成するとオランダ「フリシンゲン港」を出港しリオデジャネイロ経由で大西洋から太平洋へまわり1867年3月26日横浜へ入港します、日本に到着後、開揚丸は大阪、兵庫近海の警備を任ぜられています。 1868年1月鳥羽、伏見の戦いの最中榎本武揚を指揮官とする開揚丸は大阪湾に居て薩摩藩の軍艦「春日丸」、「翔鳳丸」を追撃し砲撃戦を展開しています、それにより「翔鳳丸」を座礁させ幕府軍は海上の戦いでは勝利を収めたのでした。 |
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江戸城の無血海上後、開揚丸を旗艦とする榎本艦隊は品川沖に停泊していましたが逃走を図り奥州へと向かいます、途中松島湾、仙台で停泊し土方歳三、大鳥桂介ら旧幕府軍残党を収容、箱館に向けて出港します、旧幕府軍が箱館及び五稜郭を占領すると艦隊は箱館港に入港し更に旧幕府軍が江差へ進軍すると開揚丸もその援護に向かいます、1868年12月27日(旧暦11月14日)開揚丸は江差沖に到着しますが翌日28日、天候の急変により座礁、乗組員は全員艦から脱出し数日後に開揚丸は海中へ没したのでした。 | ||||
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開揚丸 | ||||
基準排水量 | 2590t | 兵装 | ||
全長 | 73m | クリップ砲 | 26門内18門ライフル砲 | |
最大幅 | 13m | ダールグレン滑腔砲 | 9門追加砲 | |
推進設備 | 1862年発注 | |||
マスト | 3本 | 1863年9月起工 | ||
補助蒸気機関 | 1865年11進水 | |||
1866年8月日本受け渡し | ||||
1868年12月28日座礁沈没 | ||||
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