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咸臨丸は1855年、江戸幕府がオランダに発注した軍艦で幕府海軍所有の様式艦としては観光丸に次ぐ2番目の軍艦です、この艦が日米修交通商条約締結の為アメリカに赴く使節団を乗せたポーハンター号の別働船として太平洋を横断した事はあまりも有名な話です。 | ||||
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咸臨丸の船体と機関 | ||||
咸臨丸は排水量620t、全長49mで軍艦としての艦級はコルベット級艦となります、その姉妹艦に朝揚丸、電流丸があり朝揚丸は幕府が咸臨丸と同様にオランダに発注(造船所は異なる)、電流丸は佐賀藩が10万ドルで購入しています。 | ||||
咸臨丸は木造3本マストのバーク式艦に2気筒シリンダーの蒸気機関を搭載、最大出力100hpでスクリューにより推進します、しかし最大速力6ノットと低速であり蒸気機関は補助で通常の巡航時は帆走でした、またこの2気筒シリンダー搭載の艦船は欧米ではあまり見られず、オランダ独自の蒸気推進機関であった様で故障も多く後に取り外され咸臨丸は帆走艦と成っています。 咸臨丸はコルベット艦に属しますがコルベット艦とは戦艦、フリゲート艦の次ぐ艦級で主に船団護衛、沿岸警備に順ずる軽巡、砲艦、海防艦などが該当します。 |
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咸臨丸の搭載砲 | ||||
咸臨丸の搭載砲は両弦側の甲板上に6門づつ合計12門搭載されています、これら搭載された砲が如何なる砲であったのかは記録によりまちまちで6ポンド砲、32ポンド砲、白砲など諸説色々で中には旋回砲であったとの記録もあります(これは間違え、アメリカ海軍の記録)。 | ||||
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咸臨丸の艦歴 | ||||
咸臨丸は発注から2年後の1857年に日本に送られます、就役後は幕府海軍の練習艦として使用されていましす。 1860年日米修交通商条約締結の為に使節団がアメリカ海軍の軍艦ポーハンターに乗船、その別働船として咸臨丸も渡米します、この航海は日本船初の太平洋横断です、咸臨丸には勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎などが乗船しています。 帰国後咸臨丸は小笠原諸島を探索しています、当時小笠原諸島はアメリカが鯨油確保の為に欲していた事から日本の領有権を主張する為でした。 |
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戊辰戦争勃発後の1868年10月4日(旧暦8月19日)、咸臨丸は榎本武揚率いる幕府艦隊と合流し奥羽支援に向かいます、途中暴風により咸臨丸は本艦隊とはぐれ下田港へ避難、清水港へ移動して修理を行いましたが新政府艦隊に追いつかれ砲撃戦の末に新政府艦隊に拿捕されてしまいます、戊辰戦争後に咸臨丸は北海道の開拓団輸送業務に従事していました、1871年11月2日函館から開拓民をのせて小樽に向かう途中で暴風に遭遇、座礁沈没します、この時、船長(米国人)の操船ミスとも言われていますが乗組員は1名以外全員救出されいます。 | ||||
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咸臨丸 | ||||
基準排水量 | 620t | 兵装 | ||
全長 | 49m | 砲 | 12門 | |
最大幅 | 8.8m | |||
1855年発注 | ||||
推進設備 | 1856年進水 | |||
マスト | 3本 | 1857年日本へ引き渡し | ||
2気筒蒸気機関、スクリュー推進 | 1871年座礁沈没 | |||
最大速力 | 6ノット | |||
最大出力 | 100hp | |||
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