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千代田型は日本で初めて建造された 幕府海軍の軍艦です、1860年、日米修交通商条約締結の為に渡米した咸臨丸の艦長「小野友五郎」の提案により1862年から起工されます。当初千代田形は量産計画がなされ江戸湾及び大阪湾警備の為、同型艦30隻を建造する予定でしたが千代田形の機関部開発責任者である「肥田浜五郎」がオランダ出張などの理由で建造が遅れ竣工したのは4年後の1866年5月で試運転が行われたのは更にその翌年でした、それにより2番艦以降の建造は見送られ実際に完成したのは千代田1隻です。 その千代田形ですが排水量140tと小ぶりな船体ながら非常に耐久性に優れ戊辰戦争以後、1888年まで日本海軍で練習艦に使用された後に日本水産に無償で払い下げられ漁船として使われています。日本初の洋式蒸気艦としてはなかなかの完成度でした。 |
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千代田形の規模と機関 | ||||
千代田形は2本マストのスクーナー、蒸気スクリュー艦で排水量140t、全長31mと小ぶり、艦級的には砲艦もしくは警備艦と言ったところでしょう。全長31m対して横幅は4.8mと全体的にほっそりしたスマートな船体です。 | ||||
主な推進力はマスト、補助機の蒸気機関はスクリュー推進で5ノット、60馬力でした、この千代田形の建造は船体が石川島造船所、機関が長崎製鉄所、ボイラーが三島津海軍所とそれぞれ遠く離れた異なる場所で製造されています、此れは当時まだ日本に一環して1隻の軍艦を建造する設備が整った施設が無かった為です。 | ||||
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千代田形の兵装 | ||||
(艦首甲板上に配置された15cm砲) | ||||
千代田形の対艦砲は艦首側の甲板上船体中央に30ポンド15cm砲1門のみです、このクラスの艦の搭載砲としては大型で当初の量産計画により江戸及び大阪湾内に侵入した敵艦を包囲してこの15cm砲で一斉砲撃を仕掛ける計画であった様です、通常この砲は艦首方向に向けられています。 | ||||
(ボートホイッスル筒) | ||||
千代田形にはボートホイッスル筒(ボートホイッスル砲)が2門配備されています、ボートホイッスル筒とは小型の榴弾砲で上陸用のカッターボートなどに詰め込み本船の接近できな浅瀬からの砲撃、もしくは上陸時作戦時に使われる携帯砲です、千代田形では陸戦も想定してこの砲を搭載していたのでしょう。 | ||||
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箱館湾海戦での千代田形 | ||||
鳥羽、伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発し1868年5月3日(旧暦4月11日)、江戸城が無血開城すると幕府海軍副総裁「榎本武揚」は開揚丸を旗艦とする幕府艦隊を率いて品川沖から逃走、奥州、蝦夷を目指します、千代田形もその艦隊に随行し仙台へ到着後に新政府軍と交戦中であった庄内藩を支援に向かいます、しかし庄内藩は既に降伏、おりしも風雨の為に千代田は身動きが取れなくなります、そこへ旧幕府軍の船が通りかかり救出され11月11日に無事箱館に入港しました。 | ||||
1869年5月20日(旧暦4月9日)、千代田丸は箱館湾海戦に参戦、この海戦において旧幕府海軍は回天丸、蟠竜丸、千代田の3隻でした、激しい砲撃戦の末に千代田丸は夜中浅瀬に乗り上げてしまいます、此れを艦長「森本弘策」は座礁と誤認し乗員を全員船から下船させました、しかし潮が満ちてくると千代田は再び浮上し元の状態に戻ります、数日後に千代田は新政府軍に見つかり拿捕され後年日本海軍の練習艦となります。1888年老朽の進んだ千代田は引退し日本水産に引き渡され漁船として使用されています、一説に解体されたのは1911年であったそうで実に40年以上も使い続けられた丈夫な木造艦船であったのです。 | ||||
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千代田形 | ||||
基準排水量 | 140t | 兵装 | ||
全長 | 31.3m | 30ポンド15cm砲 | 1門 | |
最大幅 | 4.8m | ボートホイッスル筒 | 2門 | |
推進設備 | 1862年起工 | |||
マスト | 2本 | 1863年進水 | ||
補助機関 | スクリュー1基推進蒸気機関 | 1866年5月就役 | ||
機関推進最大速力 | 5ノット | 1888年軍艦として引退 | ||
最大出力 | 60hp | |||
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