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弩級戦艦ドレッドノートの竣工から6年後1912年、日本も「河内」、「摂津」の2隻の弩級戦艦を完成させます、河内型戦艦は30,5cm連装砲塔を6基(12門)を搭載、蒸気タービン機関により最大速力20ノットを引き出す事実上のド級艦ではありましたが同年イギリスが超弩級戦艦オライオンを完成、戦艦河内は竣工時から既に旧式艦でした。 | ||||
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戦艦河内の建造 | ||||
戦艦河内は完成時既に旧式艦ではありましたが基準排水量20800t、全長160m、主砲30.5cm連装砲6基(12門)、最大速力20ノットと一応当時のレベルでは弩級戦艦に位置づけられます。 さて日本海軍は戦艦河内の計画以前から弩級艦の構想はありました、河内の前主力艦である「薩摩型」(戦艦薩摩、安芸)の2隻は主砲30,5cm連装砲塔を艦首と艦尾に1基づつの2基、更に強力な副砲の25.4cm連装砲塔を両弦側に3基づつの計6基配備、戦艦安芸においては蒸気タービン使用により最大速力20ノット、基準排水量はドレッドノートを上回る20800tで準弩級戦艦とも言うべき艦です、しかしこの2隻が完成する以前に主砲30.5cm連装砲10基(弦側に最大8門向けられる)を装備したドレッドノートが就役する事により戦艦薩摩、安芸の構想は既に遅れたものとなり日本海軍は新たに弩級戦艦計画を立案せざるおえなくなります、そこで計画されたのが河内型の2隻、ドレッドノート級と互角に張り合える事を条件に1907年に計画され1909年に起工、1912年に両艦ともに竣工しています。この河内型2隻と薩摩型2隻は1913年に金剛型戦艦4隻が就役するまで日本海軍の主力艦でありました。 |
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主砲配置の問題点 | ||||
河内の主砲は艦首、艦尾に50口径30.5cm連装砲塔を1基づつ2基(4門)、両弦側に45口径30.5cm連装砲塔2基づつ4基(8門)装備されています、この配置はドイツ戦艦ナッサウと同じ配置で前後に6門づつの主砲を向けられ更に両側面には8門づつの主砲が向けられ事になります。 | ||||
(正面に向けられた主砲6門) | (後方に向けられた主砲6門) | |||
この主砲配置ですが同時期のイギリス戦艦ネプチューン、コロッサス級戦艦はアンエシュロン砲塔配置により最も攻撃力を高める必要がある側面に対して10門もの30.5cm砲が向けられます、また河内と同じ年に完成した戦艦オライオンは側面に10門向けられた上にそれら全ての砲を従来に無い34、3砲で統一、河内より数段高い攻撃力を有していました。 | ||||
(河内の側面射撃) | ||||
また戦艦河内の主砲配置にはもう一つ大きな問題点がありました、それは前後4門の主砲が50口径30.5cm砲、両弦側8門が45口径30.5cmで砲身の異なる主砲を配置した事です、50口径が初速秒間910m、45口径が810mとそれぞれ初速が異なる為に統一した射撃管制指揮ができなくなります、その事から両砲の初速を統一する必要があり50口径の砲弾の装薬量を減らして無理やり45口径に初速をお合わせたといいます、もちろん本来の50口径30.5cm砲の威力は発揮できません。 更にこの50口径30.5cm砲は英国アームストロング社製で同国でも問題視されていましたが発砲時の砲身のブレが大きく着弾地点にバラツキが生じ命中率が著しく悪くなる欠点もかかえていました。 |
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(弦側に配置された45口径30.5cm砲) | ||||
既に時代遅れと成っていた河内の砲塔配置ですが敵艦隊と混戦状態となった際、攻撃方向とは反対側へ回り込んだ敵の高速艦艇に対して一撃を食らわす事ができるのが利点です。 | ||||
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副砲 | ||||
(45口径15,2cm砲) | (40口径12cm砲) | |||
副砲は日本海軍初の45口径15.2cm砲を採用、船体両弦側に5門づつ計10門装備しています、また対駆逐艦用の40口径12cm砲も8門装備、これは前主力艦薩摩から採用された砲で当時の対駆逐艦砲としてはかなり大きなものです、同時期イギリス戦艦には10.2cm砲、ドイツ戦艦には88mm砲が搭載されていました、日本海軍は駆逐艦からの水雷攻撃をかなり意識していたのでしょう。 | ||||
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短い生涯 | ||||
戦艦河内は1909年4月に起工し1912年3月に完成されています、続いて同年7月同型艦摂津も完成、竣工翌年4月河内は第一艦隊へ編入、5月には戦艦香取に代わり第一艦隊の旗艦になります。1914年8月、日本はドイツ帝国に宣戦布告し第一次世界大戦に参戦します、参戦後河内は東シナ海、黄海の警備に従事していました、河内は大戦中、特に大きな海戦には参加していませんが1918年7月徳山湾に停泊していた河内の第一砲塔から火災が発生し砲塔が爆発炎上、河内は右方向へ横転しながら浸水12mの海底まで沈みます、その後、復旧不可能とされ解体されました、就役からわづか5年で廃艦となったのです。 | ||||
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基準排水量 | 20800t | 兵装 | ||
全長 | 160,3m | 50口径30,5mm連装砲塔 | 2基(4門) | |
最大幅 | 25,6m | 45口径30,5mm連装砲塔 | 4基(8門) | |
45口径15,2cm砲 | 10門 | |||
機関 | カーチス式単式直結タービン2基 | 40口径12cm砲 | 8門 | |
最大速力 | 20ノット | 40口径7,62mm砲 | 8門 | |
最大出力 | 25000hp | |||
装甲厚 | 1909年4月起工 | |||
弦側 | 305mm~102mm | 1910年3月進水 | ||
甲板 | 30mm~19mm | 1912年3月竣工 | ||
砲塔部 | 279mm | 1918年7月爆発沈没 | ||
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