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戦艦長門   
         
         
   
(戦艦長門1920年)   
         
 1919年日本海軍は建艦10年以内の新鋭戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻を常時装備する八八艦隊計画を立案、その第一弾として戦艦長門が完成します、当時世界最大とされた艦載砲の45口径41cm砲8門を装備した長門はまさに世界最強、アメリカのコロラド級3隻、イギリスのネルソン級2隻と並び戦艦長門、同型艦陸奥は世界のビックセブンと賞賛される程でした、その長門、陸奥が建造されると同時に各国海軍保有国はこの事態を脅威として1922年戦艦及び巡洋艦の保有数を制限するワシントン会議を発足(空母は含まず)させます、これ以上の戦艦の大型化はあまりも財政負担が大きすぎると言う事です(この点に関しては日本も同じ)。さてこのワシントン条約により次期主力艦大和は極秘に建造され日本国民はその存在を戦後まで知らされる事はありませんでした、故に戦艦長門が最強の戦艦と国民は確信していたのです。   

 
         
完成度の高い戦艦長門   
         
   
 戦艦長門は基準排水量39100t、全長225mで日本独自の設計で建造された戦艦です、船体構造は前級艦伊勢と異なり中心の太い支柱を6本の支柱でグルリと囲んだ非常に強固な構造となっています、装甲はユトランド沖海戦を戦訓として特に念入りに強化され傾斜弾に対する守りである甲板部の装甲を70mm+76mmの146mmとして側面の防御「垂直防御」も水線部305mm+傾斜装甲76mmとしています、ユトランド沖海戦でイギリス戦艦は距離15000mから発砲される傾斜弾による被害が甚大であり戦艦長門においては甲板の装甲強化が重要視されました。   
   
 長門の機関は最新のギヤードタービン4基採用により80000hp、最大速力26.5ノットを発揮、しかしこの事は極秘とされ23ノットと公式発表しています、  
   

 
         
45口径41cm連装砲塔   
         
   
 戦艦長門の最も注目すべき点は世界最大級の45口径41cm砲を8門搭載した事です、この41cm砲は米コロラド級、英ネルソン級の16インチ砲よりも高性能とされ重量1tの砲弾を距離30000mまで飛ばせたと言います。それら41cm砲は連装砲塔に収められ艦中央直線状に4基配置、艦首、艦尾の2基づつを背負い式としています。   
   
(45口径41cm砲)   
         
 その配置により主砲41cm砲は前後に4門づつ、側面には全砲8門が向けられます。   
   
(艦首の41cm連装砲塔2基)  (艦尾の連装砲塔2基)   
         
 1934年~1936年にかけて長門は大改装され、45口径41cm砲はその際に建造途中で空母に変更された加賀のものと交換されています、更に仰角の引き上げにより最大射程を39500mまで延長、装甲貫通能力も20kmの距離で454mmと強化されています。  
   
(側面に向けられた45口径41cm砲8門)   

 
         
副砲配置   
         
   
 (甲板側面に配置された50口径14cm砲)  
   
 副砲は前級と同様に砲郭化された対駆逐艦用の50口径14cm砲を甲板両側面に10門づつの計20門装備、更に40口径7.62cm高射砲を4門装備しています。   

 
         
戦艦長門の近代改装   
         
 1934年~1936年にかけて戦艦長門、陸奥は大規模な改装が行われます、その一つが前にも述べた主砲の仰角引き上げによる射程距離延長、またボイラーの交換(それに伴い煙突を1本とする)、装甲の強化、バルジの増設、魚雷発射管の撤去などが主な改装内容で船体の長さも延長されています、その為に艦そのものの重量が加算し最大速力が25ノットまで低下します、また偵察機用カタパルトの増設、対空砲を40口径76.2砲から40口径12.7cm連装砲へ交換などは大改装以前に行われています。   
   
(近代改装後の長門)   

 
         
太平洋戦争における戦艦長門   
         
 1941年12月8日、戦艦長門は第一艦隊を率いて真珠湾奇襲から帰還する空母機動部隊を迎えに瀬戸内海を出港しています、長門に乗船するのは山本五十六連合艦隊司令長官です、この時点で長門は連合艦隊の旗艦(姉妹艦陸奥と交互に着任)でした、しかし最前線で決戦の優劣を決めるべき主力戦艦が太平洋の海戦、第一戦で後方待機に留められていた事を考えると既に大艦巨砲主義の時代は終わり、空母航空戦力の時代と成っていたのです、また長門が瀬戸内海を出た当日には次期主力艦の戦艦大和が試験航海を行っていました。
 1942年2月連合艦隊旗艦は長門から大和へと移ります、それにより長門は更に活躍の機会を失います、同年6月のミッドウェー海戦でも撃沈された日本海軍の空母4隻の乗組員救助のみ任務を遂行しています。その後長門は日本国内で待機の日々を送る事となります。
 1944年10月には長門はレイテ沖海戦に参加、この時長門は米空母から発進する航空機の爆撃を受けながらも米艦隊に主砲、副砲にて応戦、此れが唯一の砲撃戦でした。
 1944年11月マニラ空襲により大和型2番艦武蔵が沈没(陸奥は爆発事故で既に沈没)、戦艦大和、長門は日本に帰国しています、帰国後長門は警備艦となり、その後外洋に出る事は無く戦艦大和沈没後には他の残存艦と共に予備艦に指定されました、日本海軍は燃料が底をつき、もはや海軍そのものが戦況の打開を期待されるものではありませんでした。
 7月18日横須賀港に停泊中の長門は米爆撃機の空襲を受け中破、その後修復される事無く終戦を向かえます、終戦後長門はアメリカ軍に接収され1946年7月米空母サラトガ、戦艦アーカンソーなどと共にマーシャル諸島の核実験に使用され沈没しました。
 

 
         
戦艦長門1920年   
         
 基準排水量  39100t  兵装    
 全長  215.8m  45口径41cm連装砲塔  4基8門  
 最大幅  29m  50口径14cm砲  20門  
     40口径7.62mm高射砲  4門  
 機関  オールギヤードタービン4基4軸  53.3cm水中魚雷発射管  4基  
 最大速力  26.5ノット  53.3cm水上魚雷発射管  4基  
 最大出力  80000hp      
     1917年8月起工    
 装甲厚    1919年11月進水    
 弦側  305mm+76mm  1920年1月竣工    
 甲板部  70mm+76mm  1946年7月核実験にて沈没    
 砲塔部  最大305mm      

 
         
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