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築造年代 5世紀中頃 |
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群馬県太田氏に二基の巨大前方後円墳があります、一つは女体山古墳で墳丘長105mの帆立貝式前方後円墳です、もう一つは太田天神山古墳でこちらは墳丘長200mを超える全国27位、東日本最大の前方後円墳です、これら二期の墳丘の主は崇神天皇の皇子「豊城入彦命」を祖とする上毛野氏と言われています、上毛野氏は元来「毛野氏」と称され「毛野国」(群馬、栃木県)を統治すべくヤマト王権より派遣された氏族です、その後毛野国は上毛野国(群馬県)と下毛野国(栃木県)に別れ上毛野国を上毛野氏がおさめ関東全域にその勢力を飛躍させました、上毛野氏は関東の開拓事業に従事し蝦夷の討伐や朝鮮半島との外交にも通じて関東平野に多くの半島民を入職させています、この頃関東平野に半島民の集落が多数存在していました、東日本最大の古墳である太田天神山古墳が築造された時代に上毛野氏は最盛期をむかえていたのでしょう。 |
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太田天神山古墳 |
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太田天神山古墳の墳丘は全長210mの三段構築で側面には噴石が施されています、外周は中堤を設けた二重の盾型周溝で囲みその外溝の全長は大凡365mでした。 |
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天神山古墳前方部 |
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前方部は南西に向けられ最大幅は125m、高さ12m程です。 |
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天神山古墳後円部 |
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後円部は直径120mの高さ17mで頂上平坦地には竪穴式の埋葬施設が設けられ長持型の石棺が納められていたと言われます、また太田天神山古墳の時代以後の県内墳丘によく見られる後円部一段目のテラスが広げられた造りに成っています。 |
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(後円部一段目のテラス) |
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天神山古墳外周の周溝 |
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太田天神山古墳の外周の堀は中堤が設けられた二重の盾型の堀と成っています、中堤の幅は大凡30m前後で他の前方後円墳より広くとれれています。 |
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女体山古墳 |
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太田天神山古墳の東側に位置する女体山古墳は全長105mの帆立貝式前方後円墳です、天神山古墳より幾らか早い時期に築造され天神山古墳と関連があると考えられています、上下二段の構築で側面には噴石が施され一重の堀で囲まれていました。 |
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女体山古墳造出部 |
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後円部の南側には帆立貝式古墳の特徴である前方部が小ぶりな「造出」と成っています、この造出は祭祀などを行う場所としていました。 |
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女体山古墳後円部 |
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女体山古墳の規模は帆立貝式前方後円墳としては全国で二番目の大きさでその後円部は直径85m高さ16mあります、上下二段階の後円部のテラスは比較的広く墳丘南側の造出と均等の高さであり双方から直接渡れる様に成っています。 |
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(テラス部) |
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女体山古墳の周溝 |
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女体山古墳の外周は一重の堀で囲まれていました、その遺構は現状畑と成り埋もれている為に規模などについては不明となっています。 |
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太田天神山古墳倍塚 |
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(目塚一号墳、 A倍塚、) |
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女体山古墳の南側に「目塚一号墳」、太田天神山古墳の北東側に「A倍塚」、更に天神山古墳の西側には「B倍塚」の合計3基の倍塚が確認されています、倍塚とは主たる大型古墳に埋葬された人物の近親者または従者の墓とされています。 |
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(B倍塚) |
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