トップページ 古墳、古代遺跡 群馬県史跡 アクセス




                         若田古墳群




          


 築造年代 6世紀前半~7世紀後半


 八幡霊園の位置する八幡台には6世紀前半から7世紀代に至る円墳群の若田古墳群が在ります、霊園の中央の八幡台頂上付近に3基の円墳が見られ更に八幡台の西側に数十基の円墳群が確認されています、また八幡台南方向には八幡観音塚古墳、平塚古墳を中心とする5世紀末~7世紀初頭の八幡古墳群の存在が確認されています、此れら若田古墳群、八幡古墳群は巨大前方後円墳時代の終焉期の前後に築造された古墳群で646年(大化2年)の「大化の改新」以後の中央集権時代への変革を知る事ができます。



                                若田大塚古墳

  

 八幡台山頂部に「若田大塚古墳」と「楢の木塚古墳」の二基の円墳が東西に並んでいます、東側の若田大塚古墳は横幅が30m程で高さ7、5mあり側面に噴石が施され二段構築と成っています。

  

 若田大塚古墳には横穴式の石室が掘られていました、石室に残っていた副葬品などから若田大塚古墳の築造期は横穴式の石室の古墳が多く造られる様に成った6世紀前半と考えられています。

  



                                 楢の木塚古墳

                    

 若田大塚古墳の西側には楢の木塚古墳が並んでいます、現状土が被せられた状態で保存され墳丘の規模は大凡横幅15m程です、上下二段の築成で築造年代は6世紀後半と言われています。

  

 楢の木古墳は若田大塚古墳に継続して造られたと思われます、若田大塚古墳と楢の木塚古墳は共に同じ氏族の墓であったのでしょう、また両古墳が造られた6世紀代は大型の前方後円墳の時代であったので二つの古墳の規模から考えて墳丘の主はこの近辺を有する土豪(後の郷長)クラスの氏族の墓と言えます。



                                   峯林古墳

  

 楢の木古墳から南西50m程の山頂より幾らか低い位置に峯林古墳と呼ばれる円墳があります、直系17.5mの二段構築で噴石が施されていました、現状石室が露出した状態に成っています、この峯林古墳は八幡台山頂の他の二基の古墳より100年程時代を隔てた7世紀後半に造られています。

  

                                                             (石室跡)

 峯林古墳の造られた7世紀後半は「大化の改新」以後の時代で古墳築造において様々な規制が設けられていました、その一つに墳丘の規模は身分相応とすると有り峯林古墳の主も当古墳の大きさに殉じた立場であったのでしょう。



                               物見塚古墳(休塚古墳)

   

 八幡台の南東下手で八幡霊園の入口に物見塚古墳があります、若田大塚古墳が築造された以前の5世紀後半に造られた円墳でこの墳丘もまた石室が露出した状態です。

   

                                                         (露出した石室の巨石)



                                八幡観音塚古墳

   

 八幡台から南東1kmに7世紀前半に構築された前方後円墳の八幡観音塚古墳があります、観音塚古墳は若田古墳群と異なり南東300mに位置する前方後円墳の八幡平塚古墳と同様に八幡古墳群に属します。

                     

                              (八幡台から見た観音塚古墳)

         観音塚古墳は全長約105mで上下二段の構築となっています、前方部は左右に広くその幅は約100m程です。

  

                                   (前方部)


                               観音塚古墳後円部

  

 後円部の南側には石室が開けられその室内は大変広く天井には重さ60tの巨石が被せられています、石室の規模や天上部の巨石などから観音塚古墳は相当の有力者の墳丘であったと考えられます、観音塚古墳が築造された頃は「大化の改新」の直前で巨大前方後円墳時代の末期でした。



                                    (石室跡)

トップページ  古墳、古代遺跡  群馬県史跡