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 埼玉古墳群1  
 (古墳群北側)  
         
   
         
 埼玉古墳群2  
         
 築造年代 5世紀末~7世紀  
         
 埼玉県行田市の埼玉古墳公園には5世紀末から7世紀代にかけて築造された8基前方後円墳と2基の円墳が現存しています、当時武蔵国は武蔵国造の地位を巡って笠原氏の内紛である「武蔵国造の乱」が勃発します、それに勝利した笠原直は武蔵国造と成り現在の埼玉古墳群を本拠とした、との説が有力で埼玉古墳群は武蔵国造である笠原氏代々の墓所と考えられています。  

 
         
 武蔵国造の乱  
         
 武蔵国造の乱は日本書紀に安閑天皇元年(534年)に武蔵国造(武蔵国での最高権力者)の地位を巡って笠原直使主と同属の笠原小杵が争ったとあります、小杵は上毛野国(現在の群馬県)の国造で関東最大の有力豪族「上毛野君小熊」の助力により使主を殺害しようとしたところ使主は朝廷に進言し武蔵国造の地位を認められ小杵を制圧します、その後使主は武蔵国内の四箇所の土地を屯倉(朝廷の直轄地)として朝廷に差し出したと云います、これら四箇所の土地は敗北した小杵の有する土地で当初より朝廷は各地方に屯倉を増やしてそれら地方で力を保ちつつ統制を図る計画であったと云われています、要するに朝廷は使主と暗躍して関東での発言権を強めた事になります、武蔵国造の乱の後に使主の一族である笠原氏は武蔵国内での勢力を高め大凡2世紀に渡り巨大古墳群である埼玉古墳群を築造しました。  

 
         
 愛宕山古墳  
         
   
 愛宕山古墳は埼玉古墳群の中で最小規模の前方後円墳です、墳丘長53mで後円部直径30m、高さ3.4m、前方部幅30mあります、外周の堀は中堤を構えた二重の方形状の掘りが囲っています、築造年代は6世紀中頃です。  
   
     (外周の掘)  

 
         
 二子山古墳  
         
   
 武蔵国最大規模の前方後円墳である二子山古墳は墳丘長138m、後円部の直径70m、高さ13m、前方部の幅が90m、高さ15mで後円部より前方部が大きく造られています。  
   
 二重の方形状の周掘が囲み南面の「くびれ部」と南側の中堤にそれぞれ造出が設けられています、築造期は6世紀前半で埼玉古墳群を築造した氏族の最盛期であったのでしょう、丁度同じ頃に武蔵国造の乱が起きています。  
   
 (くびれ部の造出、     中堤の造出、)  

 
         
 丸墓山古墳  
         
   
 1590年(天正18)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に石田三成が忍城水攻の本陣とした丸墓山古墳は直径105m、高さ19mある国内最大の円墳です、二段構成で外周は当時墳丘の北側を流れていた忍川から引水した水濠が囲んでいました、築造年代は二子山古墳と同時期の6世紀前半で如何なる理由でこの時代に日本最大の円墳を造ったのかは分かりませんが何らかの意義があったのでしょう。  
   
     (石田堤跡)  
         
 丸墓山古墳の南側には忍城水攻の際に石田三成が構築した石田堤の跡が残っています。  

 
         
 稲荷山古墳  
         
   
 稲荷山古墳は埼玉古墳群の最初に築造された墳丘で5世紀後半に築造されました、全長120m、前方部幅74m、高さ10.5mで後円部が高さ12mの直径62mあります、方形状の二重の周掘が囲み後円部と中堤の北側に一箇所づつ祭祀を行う区画の造出が設けられています。  
   
     (後円部造出)  
         
 二重の掘は丸墓山古墳と同様に忍川より引水されていました。  
   
         
 稲荷山古墳埋葬施設  
         
   
 後円部頂上から河原石を並べた礫槨と素掘りの竪穴に粘土を敷き詰めた粘土槨が見つかっています、また礫槨からは鉄剣が発見されています、この鉄剣には115字の漢字が金像嵌(金を嵌め込む技法)により表されていました。  

 
         
 倍塚群  
         
   
 稲荷山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、将軍山古墳に囲まれた区画は倍塚と考えられる円墳が7基程点在していました。  

 
         
 将軍山古墳  
         
   
 稲荷山古墳の南側には前方後円墳の将軍山古墳が造られています、全長90m、前方部の幅68m、高さ9.5、後円部高さ8.5m、直径39mで6世紀末の築造です、外周は他の前方後円墳と同じで二重の方形状の掘で囲み後円部と中堤の北側に造出があり造出に並んでブリッジ(土橋)が設置されています、後円部、前方部共に横穴式の石室が発見されました、埼玉古墳群の最初の横穴式石室で前方部石室は後円部被葬者の夫人の石室と考えられています。  
   
 (中堤の造出と並ぶブリッジ、    後円部造出、)  
         
 この将軍山古墳は千葉県富津市の稲荷山古墳とその形状が類似するとされ将軍山古墳の石室の石材は富津市から産出された房州石を加工したものである事が確認されています、これらの事から武蔵国造と房州須恵国造とは同族もしくは血縁関係であったと考えられています。  
   
     (展示館と成っている後円部石室)  
         
 後円部石室は現在展示館として見学可能です。  

 
         
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