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 吉見百穴  
         
         
   
         
 築造年代 6世紀~7世紀  
         
 埼玉県比企郡吉見町を流れる「市野川」東岸の段丘壁面に219もの横穴式石室が在ります、「吉見百穴」と呼ばれ大凡6世紀~7世紀に造られた玄室とされています、当初明治期の調査では先住民の「コロボックル」の住居と考えられていましたが大正期の調査により飛鳥時代の後半に造られた墓(玄室)である事が確認されています、丁度吉見百穴が造り始められた時代である6世紀後半に成るとヤマト王権の中央集権化に伴い各地方豪族の権力の象徴である大型前方後円墳の築造に対して徐々に規制がかけられ646年(大化2年)には「大化の改新」により古墳の規模を身分により規定する「薄葬令」が発せられます、此れにより一部の古墳を除いて各地方の墳丘は小規模化していきます、吉見百穴の建設はその時代の流れと何ら関係があると見なされています。  

 
         
 吉見百穴の全容  
         
   
 吉見百穴は凝灰岩のにより形成された丘状壁面に219もの横穴式の玄室が山頂へ向かって堀込まれています、それら玄室の入口は如何なる意味をなしているかは分かりませんが幾つかの形状に分類されます、玄室群の山頂部からは比企丘陵が一望できてこれら横穴墳の被葬者達は自ら開拓した土地を望むこの地を墓所としたのでしょう。  
   
 (山頂部から比企丘陵を遠望)  (市ヶ尾横穴墳群)  
         
 同時期にこの様な横穴墳群は各地に造られています、横浜市の市ヶ尾横穴墳群、同吉見町の黒岩横穴墳群、小田原市の弁天山横穴墳群、羽根尾横穴墳群なども同時代のものです、飛鳥時代後半以降には横穴墳は一般的な埋葬施設となっていました。  

 
         
 玄室入口の形状  
         
   
 (三角形状)  (正方形状)  
         
 玄室の入口は幾つかの形状に分類されます、三角形状、正方形状、台形状、側円に湾曲を持たせた形状、長方形状の5種類です、これら入口の形は被葬者の身分、性別、年齢、または築造の時代と如何なる基準で分類されているのかは分かりませんが何らかの理由で造り分けていたのでしょう。  
   
  (台形状)  (側面を湾曲させた形状)  
         
 入口の側面が一段深く刻まれているのは石板により蓋がされていたと言います、また石室がアンバランスに並んでいる場所は初期に掘られた穴で統一基準で配列されている場所は後期の穴と考えられています。  
   
 (長方形状)  

 
         
 玄室と副葬品  
         
   
     (2人分の玄室)  
         
 玄室は穴により多少異なりますが奥行きが大凡2.5m前後で高さは130cm程あり遺体を安置する台座が設けられています、また2箇所以上の台座が設けられている穴も有り被葬者の家族が死に追葬されたと考えられています。  
   
 (副葬品の土器と玉類)   
         
 玄室からは副葬品として金環、玉類、埴輪、土器などが見つかっています、副葬品の中には高価な物もありこの様な品を所持していた被葬者は一般人とは異なる人達で首長、国造などの豪族達に近い人で所謂当時の地方官職者であったと創造できます、またこの様な石室を掘るには数人の人数で1ヶ月以上は要していたと考えられ石室専門に掘る職人がいたのでしょう。  

 
         
 旧日本軍地下軍需工場とヒカリゴケ自生地  
         
   
  (地下軍需工場へのトンネル)  (天然記念物ヒカリゴケ自生地)
 
         
 横穴墳群の岩山下手には対戦中に旧日本軍が掘った地下軍需工場へのトンネルが3本ありこの辺りの玄室が破壊された状態に成っています、また同じく岩山下手の2箇所の玄室には天然記念物のヒカリゴケが生息しています。  

 
         
 武州松山城  
         
   
 吉見百穴の南隣には戦国期に小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏の攻防戦が展開された武州松山城が存在します、江戸期の頃には吉見百穴の玄室がこの松山城の武器庫であったと考えられていました。  
   

 
         
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