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 飛鳥山古墳群  
         
         
   
         
  築造年代 大凡6世紀代  
         
 東京都北区の飛鳥山公園の台地上に円墳郡である飛鳥山古墳群が造られていました、大凡6世紀頃の築造とされ直径20m~30m位の当時としては比較的規模の小さい円墳群により構成されています、その頃武蔵国は「无射志」とされ行田「埼玉古墳群」付近を本拠とする「无射志国造」の氏族により統治されていました、その国造のもと倭人、朝鮮半島人、倭人化した蝦夷人達が无射志国各地の開拓事業に従事し水田開発を推進していました、飛鳥山古墳群はそれら開拓者の首長が自ら切り開いた耕作地帯を眼下に見下ろす台地上に構築した古墳群であると考えられます。  

 
         
 飛鳥山  
         
   
 飛鳥山は多摩丘陵から延びる突起した半島状の台地で中世の頃には開拓武士団である秩父党豊島氏の氏族飛鳥山氏の居館が置かれていました、その台地の東側の北区、足立区一帯は古代湿地帯が広がり農耕に適した平野でした、しかし无射志国は比較的開発が遅く当時その開拓事業は中小規模の豪族達が主体に成っていました、それに対して上毛野国(群馬県)などは早くから有力な豪族が在住して積極的な開拓事業を推進させ国力を高めています、その事は当時の无射志国、上毛野国の古墳の規模や数などを比較してわかります。  

 
         
 飛鳥山1号古墳  
         
   
 飛鳥山1号墳は古墳群の中心的な墳丘でその規模は直径31mで幅3.8mの周溝が掘られていました、横穴式の石室が設けられ中からは「とんぼ玉」(ガラス玉)が見つかっています、その事からこの墳丘の被葬者は大陸と関わりのある人物または大陸からこの地へ入職した氏族の長と考えられます。  
   
 (飛鳥山2、3号墳)  
         
  1号古墳の北西方向の直径20m位の円墳である飛鳥山2号、3号墳が確認されています。  

 
         
 渋沢邸内築山  
         
   
 1号古墳の南東側に渋沢邸内築山と呼ばれる盛土が有ります、これもまた飛鳥山古墳群の墳丘の一つであったと考えられています、飛鳥山公園内にはこれら円墳が合計6基見つかっています。  

 
         
 豊島郡衙  
         
   
 飛鳥山古墳が築造された100年後の8世紀代に飛鳥山公園の台地の南東500mの位置に豊島郡の中心的役所である郡衙(現在の御殿前遺跡)が置かれます、当時武蔵国は23区の豊島郡をはじめ21郡に分けられていました、律令体制下で正式なかたちで役所が置かれこの頃から国を挙げた本国的な武蔵国(関東平野部)の開拓事業が開始されます、716年(霊亀2年)に朝廷の命により関東各地に点在していた開拓移民の高麗人1799人を武蔵国に移し高麗郡を成立させ更に「知々夫国」を武蔵国に併合し秩父郡を発足させます、中央府はこの様に武蔵国に重点を措き奈良期には国級を大国と位置付けています。  
   
  (郡衙イメージ)  

 
         
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