築造年代 5世紀前半~6世紀
荏原台古墳群は東京都世田谷区の野毛古墳群と大田区の田園調布古墳群を合わせて旧荏原郡に位置する事から荏原台古墳群と呼ばれています、共に多摩川北岸の丘上に築造された南武蔵最大規模の大型墳丘を有する古墳群です、その内野毛古墳群は大型帆立貝式古墳でる野毛大塚古墳を中心に南東方向へ大型帆立貝式前方後円墳、大型円墳が並びこれら古墳の規模などから当時武蔵国内で相当有力な豪族の墓であったと考えられています。
野毛大塚古墳
野毛大塚古墳は5世紀前半に築造された帆立貝式古墳で全長82m、高さ10mの三段築成で前面噴石が施されています、前方部は長さは16m、後円部は直径約66mで前方部の脇には小さな造出が設置されています。
(上段のテラス)
帆立貝式墳丘では関東有数の規模を誇る野毛大塚古墳ですがどの様な人達の墓であったのでしょうか?日本書記に西暦534年一つの事件が書かれています、武蔵国造(朝廷より任命された武蔵国の長官職)を巡って笠原直使主と同属の笠原直小杵が内紛を起します、当初笠原直小杵は関東の有力豪族である上毛野君小熊に救援を願いそれに対抗して笠原直使主は朝廷に助けを申しいれます、結果小杵は敗北し殺害されてしまいました、その事件により使主は朝廷に武蔵国内の4箇所の土地を屯倉(朝廷の有する土地)として差出し武蔵国造の地位を安泰にしています、その後使主の一族は本拠地行田に巨大古墳群である埼玉古墳群を造営したとされ逆に小杵の本拠地である野毛は衰退したと云われています。
(下段のテラス、 後円部の頂上、)
上下テラスと前方部には円筒型の埴輪が並べられ後円部頂上からは「割竹形木棺」と「箱形石棺」更に「箱形木棺」2基の合計4基の埋葬施設が見つかっています。
野毛大塚古墳前方部と造出
(前方部)
後円部の西側に帆立貝式古墳の特徴である小ぶりな前方部がありその脇には祭祀を行う造出が設けられています。
(造出部)
御岳山古墳、狐塚古墳、八幡塚古墳
野毛大塚古墳から南東600mの現等々力不動尊の位置に全長57mの帆立貝式前方後円墳である御岳山古墳があり更にその南東に狐塚古墳と八幡塚古墳の2基の円墳が連なっています。
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