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創建 756年(天平勝宝8年) |
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上野国分寺は741年(天平13年)聖武天皇による全国の国分寺造営の詔により速やかに創建されました、利根川水系である染谷川南岸の台地上に位置する上野国分寺の寺域は南北235m、東西220mで中心伽藍の区画は中門から金堂へと回廊が渡されその西側に七重の塔があり奈良の東大寺に似せた配置に成っています、建築当初に上野国分寺は完成が急がれた為に建築の途中で伽藍などに傾きが現れ後期の建造は修復工事をかねて行われていました、更に完成後も修復作業は継続され上野国分寺の維持費は膨大な額となりそれらの費用は全て国司が負担しています、それが原因か定かではありませんが1030年(長元5年)には上野国分寺は荒廃した状態に成っていました、またこの荒廃した状況は939年(天慶2年)の平将門の乱によるものとも云われています、その後南北朝期の後半には当地に建てられた上野国分寺は廃寺となり後に北方の高崎市東国分町に変換されています。 |
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南大門 |
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染谷川の国分寺橋を渡り200m程北へ進んだ所に南大門が開かれていました、南大門は1108(天仁元年)の浅間山の大噴火による火山灰の層の上に建てられている事からそれ以後に再建されたと考えられています。 |
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(国分寺橋) |
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築垣と堀 |
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南大門が置かれた寺域南面の築塀が現状復元されています、柱と柱の間に関板を横向きに渡してその上に土を何層にも突き固めながら積み上げる版築工法で構築された土塀が国分寺の外周を囲んでいました、また南面の土塀に外側には空堀が確認されています。 |
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中門と中心の伽藍 |
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南大門を潜り抜けると正面に中門が在り上野国分寺の中心区画の伽藍となります、中門から回廊が中央の広場を囲み金堂へと通じていました。 |
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金堂 |
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(金堂基壇) |
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回廊が囲む金堂の正面の区画には建物は無く広場と成っていました。 |
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(金堂礎石) |
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金堂の基壇は土を突き固めた版築工法で盛土されその側面は榛名山の安山岩の切石で化粧が施されています。 |
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七重の塔 |
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(七重の塔基壇) |
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七重の塔は回廊区画の西にあり高さは60mと云われています、その基壇は金堂と同じく版築工法で盛土され側面は切石により化粧されています。 |
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(七重の塔礎石) |
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西門と東門 |
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(西大門、 東大門、) |
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中心区画の伽藍の東西には西門と東門が東西対称の位置にありました。 |
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講堂と北門 |
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金堂の北側裏手には仏教講義を行う講堂が置かれその更に北側の真後ろには北門が在りました。 |
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