現在武甲山山頂部は石灰採掘により大きく削り取られて以前の山頂平坦地はそっくり消滅し古の状態を知る事はできません、今回江戸末期から明治初期にかけて編集された秩父志の挿絵をもとに山頂部の当時の状況をイメージしてみました。
山頂部の入り口
武甲山の山頂部への入り口には大きな鳥居が在りその西側の脇には竹屋と呼ばれる社人が生活する為の施設が設けられていました。
流鏑馬場
秩父志の挿絵には山頂の入場口南に流鏑馬場が画かれています、当時流鏑馬の行事が奉納される時期など詳細はわかりません。
本殿に向かう参道
武甲山の山頂の平坦地はかつては石灰岩がむき出しに成った岩場であった様です、その岩場の谷間を山頂入り口から奥の本社に向かって参道が延びていました。
本社蔵王権現社
参道の先に本社である蔵王権現社が在りました、伝説では日本武尊が甲を奉納した石室に建てたとなっていますが実際は江戸期初め頃まで山頂部に金王寺と云う修権道の寺院が在り蔵王権現社は金王寺付属の社で金王寺が廃寺と成り蔵王権現社のみ独立した形で存続しています。
石灰採掘事業が行われる以前の権現社は現在の位置より数百m南に建てられていました。
熊野権現社
本社蔵王権現社の南方向に鎌倉期に建立された熊野権現社が在りました、現在は消滅しています。
大龍通権現社
蔵王権現社の西には当時奥社と呼ばれた大龍通権現社が存在していました。
金王寺の梵鐘
奥社大龍通権現社の脇には既に廃寺と成った金王寺の梵鐘が置かれていました、この梵鐘は蔵王権現社の脇に在ったものを此処に移動したと云われていますがその理由についてはわかりません。
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