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 太田金山城  
         
         
   
         
 太田金山城写真  
         
 築城年代 1469年(文明元年)  
         
 太田金山城は新田金山城とも呼ばれ新田義貞の末裔である岩松家純により1469年(文明元年)に築城されました、時代は古河公方足利成氏と関東管領山ノ内上杉氏が激突する享徳の大乱の最中で管領方の太田資長、太田道灌親子により武蔵国に深谷城、岩槻城、川越城、江戸城が完成し反撃に転じ様としていた時です。  

 
         
 金山城での初戦  
         
 太田道灌はこの金山城を難攻不落の要害として賞賛していました、その金山城の初戦は1471年(文明3年)に古河公方足利成氏が山ノ内上杉氏の拠点である武蔵五十子城に侵攻する途中で金山城に攻撃をかけた時です、成氏は8000の兵で大凡70日に及ぶ攻撃を繰り返しましたが金山城は一向に落城させる事ができず成氏は古河に撤退したと云います、此れ以後金山城の堅固さは関東一円に知れ渡る事となります。  

 
         
 小田原北条氏と越後上杉氏の狭間で  
         
 16世紀前半には金山城は岩松氏を奉ずる形で由良氏(横瀬氏)の持ち城となります、1546年(天文15年)の川越夜戦により北条氏康は山ノ内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方足利氏の連合軍を撃破します、それにより古河公方足利晴氏は小田原北条氏に降伏し古河公方の配下であた金山城の城主「由良成繁」も小田原北条氏の傘下に入りました、1560年(永禄3年)長尾景虎(上杉謙信)は小田原北条氏討伐と関東管領就任式を鶴岡八幡宮で行う為に越後を出発して上野国厩橋城に入ります、翌年の永禄4年に景虎は小田原を包囲した後に管領就任式を行い越後へ帰りました、この時成繁は景虎の圧力に屈して景虎に従ったと云います、その後成繁は謙信に背き古河公方足利義氏の配下と成ります、この時点で古河公方足利氏は小田原北条氏に下っていたので由良氏も自ずと小田原北条氏に帰服した事になります、1566年(永禄9年)上杉謙信は佐竹義重と共に小田原北条氏に属した金山城に攻めかかりましたが落城させる事はできませんでした。  

 
         
 放棄された金山城  
         
 その後謙信は幾度も金山城の攻略を計画しましたが何れも不発に終わっています、1578年(天正6年)成繁が死去するとその子息由良国繁が跡を継ぎます、成繁の死後北条氏政は国繁に金山城からの退去を要求しましたが国繁は此れに抵抗し小田原北条氏と小競合いに成りましたが最終的に金山城を小田原北条氏に明渡し自らは桐生城へ入ります、小田原北条氏の直続の城となった金山城ですが1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻では籠城する事無くそのまま放棄されその後廃城と成りました。  

 
         
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