まず青山城の築城年代についてですが比企方面が激戦地であった時代である長享の大乱の最中の比企郡須賀谷原の戦、同郡高見原の戦1488年(長享2年)の時期または1561年(永禄4年)~1564年(永禄7年)まで繰広げられた小田原北条氏、太田三楽斎資正、武田信玄による松山城争奪戦の頃と考えられます、この二期の戦乱時に高見城、小倉城など比企方面に幾つもの城が築城されたのです。
1560年(永禄3年)長尾景虎(上杉謙信)は関東管領就任の為に越後を出て鎌倉鶴岡八幡へ向かいました、途中厩橋に入り翌年松山、川越で北条氏と戦い小田原城を包囲した後に鶴岡八幡で参拝し越後へ帰りました、これら一連の事件は里見氏、佐竹氏、宇都宮氏、太田氏など反北条の諸氏を決起させる要因となります、太田三楽斎資正は松山城を占領し扇谷上杉憲勝を城主に据えました、それに対して北条氏康、氏政親子は松山城撤回にのり出しますがなかなか落城は叶わず1563年(永禄6年)正月、甲相同盟により武田信玄親子が加勢に駆けつけて要約落城させられたのです。
1563年(永禄6年)北条氏は松山城を撤回したのですが一つ防衛上の問題点が残ります、上杉謙信が武蔵国に干渉するかぎり松山城は決して安泰とは言えない状況でもし松山城が再度占領された場合下記の図にあるように松山城から上唐子、鎌形、明覚、五明、青山、小川(小川町)へと通じる裏街道筋で小川へと進攻される可能性があります。
もし小川へ進攻された場合小川から西の腰越、安戸方面は孤立し小倉城、菅谷館などは松山城と小川の双方の挟み撃ち状態に成り更に主要幹線道である鎌倉街道が寸断される恐れがあるのです。
裏街道筋には主だった支城は無く自ずと青山城が重要視され松山城の上田案安楽斎、上野介に青山城ならび腰越城を堅固に防衛するように命じたと考えられます。
(青山郷から見た青山城)
青山城の北が仙元山、南が物見山で西の谷が青山郷、反対の東側の谷が割谷です、青山郷、割谷共に防衛上重要な谷間でした。