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岡城   
         
         
   
         
  岡城の歴史についてですが新編武蔵風土稿に太田道灌の持ち城と記されている事から太田道灌により築城されたと予想されます。以後、永禄年間において太田康資がこの辺りを治めていたため康資の城であったと考えられます。それ以外に特にこの城について書かれた文献などは無く、よく知られていません。また岡城の築城理由についてですが、不可思議な点が多々あるのです?  

 
         
不可思議な築城理由   
         
  歴史と言う物は謎、解明されてない事実が多ければ多いほど面白味がましてきます、まず皆さんが城址に訪れた時になにを思われるでしょうか?なぜここに城が有るのだろう?だれがどんな理由でこの城を築いたのか?などさまざまな疑問がわき上がってくる事でしょう。さてこの岡城ですが私が最初に岡城を訪れた時に、なんのためにこの地に城を築く必要があったのか全く不明でありましいた。概ね城という物は本来以下のような理由で築かれる物であります。  
         
  正面からの敵を食い止めるため

 各支城の中核(本城)
 
 繋ぎの城(主に前線との連絡用)
 
 街道筋の押さえ

 経済的理由

 格武士団の勢力範囲の主張(館など
 
         
  大まかこの様な理由があげられます、しかし岡城においては上記のいずれにも該当しないのです。
この城は築城年代と太田氏の勢力圏に存在する事から一般的に太田道灌の城と言われてます、では岡城の築城者を道灌と仮定して岡城の築かれた時代背景から考えてみましょう。まずその時代、武蔵国はどの様な状況であったか簡単に年表にまとめてみました。
 
         
 1454年 享徳三年  足利成氏、上杉憲忠を鎌倉で殺し享徳の乱がおこる。

1456年 長禄元年  太田道灌により江戸城完成、同年、岩槻城完成

1465年 寛正六年  足利成氏、武蔵国太田庄に出陣し上杉持朝と戦う

1466年 文正元年  上杉房顕、武蔵国五十子で没する、上杉顕定、関東管領となる。

1473年 文明五年  河越城主上杉政真、足利成氏と五十子で戦い戦死する、上杉定正、
               家督を継ぐ、

1476年 文明八年  長尾景春の乱が起こる、秩父党の豊島氏・江戸氏らこれに加わる、

1477年 文明九年  太田道灌、武蔵国江古田、沼袋にて豊島泰経 ・泰明ら兄弟と戦い破る、

1478年 文明十年  太田道灌、豊島泰経を討伐するため膝折宿に陣を張る、同年太田道灌・
               上杉定正 長尾景春を鉢形城にて攻め落城させる

1480年 文明十八年 太田道灌、長尾景春を秩父郡日野城に攻め落城させる、

1486年 文明十二年 上杉定正、太田道灌を相模国糟屋にて謀殺する、 
 
         
  岡城が築城された時代は山内・扇谷上杉と古河公方足利成氏・長尾景春との戦乱の最中でおおよそ文明八年に長尾景春が乱を起こし,それに豊島氏・江戸氏が加わったあたりではないかと考えられます。ではなぜその時代なのか地域的な面から考えてみましょう。  
         
  下に記載した地図は岡城とその周辺の地図ですが岡城の存在する新座郡の南側は秩父党豊島氏の勢力範囲である豊島郡と隣接しています、もし太田道灌の築城で有るなら15世紀後半の武蔵国あたりの時代背景から見てそれらをなんらか意識して築かれたと思われます、しかしそこで幾つかの疑問が出てきます、  
         
   
  まず岡城の築かれている位置ですが豊島郡から河越道を越えて2Kmほど離れた場所に有り、なおかつ荒川より1.5Km離れています、これだけ距離をおいてしまうと城としての重要な課題である街道及び交通路を押さえる機能は果たしません。では正面の敵に対する防備の面から考えてみましょう、岡城から見て荒川対岸は太田氏の勢力圏ですから除外です、又西方は河越城ですから同じです、やはり岡城の正面敵とは豊島氏の石神井城ないし荒川沿いを東に進んだ豊島氏の同族の志村氏と成りますがなぜ重要な交通路で有る河越道、膝折宿を2kmも後退させた現朝霞市岡の地点に城を築いたのでしょう?文明十年、道灌は豊島氏の平塚城攻略のため膝折に陣を張りました、岡城では無く此の宿場に軍勢を集結させたのです、河越道、膝折宿は交通の要所で有り軍事的にも重要な土地でした、本来なら此処に城を築くのが本筋です、又江戸城、河越城間の繋ぎの城としても街道から大きく離れては意味がなく連絡用の物見の城としては低すぎます、そうです岡城は当時、城としての役割をなんら持たずに築城された事になってしまうのです、では別の角度で豊島氏・江戸氏が景春の乱に加わった事情から考えてみましょう。  

 
         
 急遽建てた仮の砦??  
         
  長禄元年、太田道灌は江戸城を完成させます、その事が豊島、江戸氏の大反感を買う事に成ります、それは江戸城の築城された平川郷とは江戸氏の旧所領で有り豊島氏の所領と隣接する場所です、江戸城が築城される事により豊島、江戸氏の現所領の領有権を脅かされるのをおそれた両氏は文明九年突如、上杉方から長尾氏へ寝返りを起こしたのです、(寝返った理由は他にも有ると思われますが?)豊島氏は石神井、練馬、平塚城に篭城し江戸城と河越城の連絡路を寸断する作戦に出てきました、此れには道灌も驚いた!!まさか!!と思う不足の事態が発生したのですから道灌は江戸城、河越城の連絡路の再確保をせまられました。
 さてここから私の仮説になりますが、連絡路の再確保に迫られた道灌が急遽目に付けたのは下総の本領を追われ赤塚城(現板橋区赤塚)に居を置いた千葉自胤と豊島氏の同族であり豊島宗家を見限り上杉方に付いた志村城(現板橋区志村三丁目)の志村氏です、本道である河越道を大きく迂回して脇道の赤塚、志村城ルートを経て中山道に入り江戸城と繋ぎさらに赤塚城の延長線上に岡城を築き一本の道筋として江戸、河越城間の仮の連絡路をひいたとは考えられないでしょうか?これはあくまで私の仮説にすぎませんが岡城、赤塚城、志村城はほぼ等間隔に並び最終的に志村城より中山道へとぬける豊島氏の勢力圏をさけるための最も無難な連絡ルートでその繋ぎの城として岡城は築かれたのではないでしょうか?新座の原野に忽然と築かれた城、皆さんどうお考えになりますか?ちなみに岡城、赤塚城、志村城の周辺は当時広い湿地帯でした、これも又築城理由となんら関係の有る事かもしれません?
 

 
         
         
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