小山田城は武蔵七党秩父党の小山田氏の居城です、平安末期の1171年(承安元年)小山田氏初代党首小山田有重により築城されたのが始まりです、有重は桓武平氏のながれである秩父重弘の子で兄は畠山重忠の父畠山重能です、有重の子息には二郎重義、稲毛氏の祖稲毛三朗重成、榛谷氏の祖榛谷四郎重朝などがいます、有重は小山田城を築くと二郎重義に同町田市内の小野路街道(後の鎌倉街道)沿いに在る小野路城に配置して自らは小山田城に入ったと云われています、また三郎重成、四郎重朝は平家討伐のさいに源範頼に従軍し一ノ谷で戦っています。
南北朝期の小山田氏
1333年(元弘3年)元弘の変の頃に小山田城は防衛上鎌倉幕府の管理下にあり北条泰家が守っていました、分倍河原で幕府軍が敗退すると泰家は敗走しそれを追って新田義貞の侍大将である小山田高家(有重から6代目の子孫)は鎌倉に入り北条氏を滅亡に至らしめたとされています、また湊川(神戸市)で新田義貞、楠木正成は足利尊氏に大敗した際に高家は自らの馬を主君義貞に献上し敗走させてそこで討ち死にしたと太平記にあります。
小山田城の改築
南北朝期の後、小山田庄は国衛領と成り小山田城は小山田上杉氏が入りましす、長尾景春の乱において小山田城は景春方の溝呂木城、小磯城、小沢城に対抗する拠点であった為に太田道灌は小山田城を大改築します、それ以前は地域領主の館であった小山田城が一大要塞となったのです。
16世紀後半小山田庄は小田原北条氏の支配する所となります、1569年(永禄12年)甲相同盟(武田氏、北条氏の同盟関係)を破棄した武田信玄は武蔵国内に侵入します、時に武田軍は現町田市内を通過しその事に危機を感じた北条氏は小山田城、小野路城などの付近の古城を改修強化しました、この様に小山田城は二度に渡る改築がなされてのでした、その後の小山田城は如何なる末路を辿ったのかは定かではありませんが大凡1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの後に廃城と成ったのでしょう。