(甲賀流忍者屋敷)
忍者と言えば最も代表的なものとして甲賀流、伊賀流が上げられます現在も甲賀の里(滋賀県南部)、伊賀の里(三重県伊賀市)一帯には忍者屋敷及び遺構が多数残っています、ここではそれら現存する忍びの屋敷を見てみましょう。
甲賀流忍者屋敷
甲賀流忍者53家の筆頭である望月家の邸宅です、内部はカラクリ屋敷に成っています、中世望月家はこの辺りの代表的土豪であったそうです。
どんでん返しと抜穴
横壁を押すと身を隠す為のどんでん返しと成り床板を持ち上げると外へと抜ける抜穴が開いています。
カラクリ窓
窓とその枠に紙などを挟みこんでスライドさせるとロックが外れ格子戸が開き外へと抜けられる仕掛けに成っています。
屋根裏部屋
中世、江戸期の時代大半の家屋には屋根裏部屋が有りましたがここでは外的の進入を知らせる鳴子が取り付けられています。
薬屋と成った望月家
(望月家に残る薬剤調合道具)
上記の屋敷内のカラクリは全て江戸期に入ってから取り付けらえた物で忍者が活躍した乱世の時代には無かったそうです、ではなぜ平穏な時代にこの様なカラクリが必要であったのか?それは江戸期に入り戦が無くなり忍者である望月家は職を失い薬屋家業をはじめたところ大繁盛したそうです、その為財産を狙う盗賊が頻繁に現れそれら盗賊から身を守る目的でこの様なカラクリが取り付けられたのです。
伊賀流忍者屋敷
三重県伊賀市上野公園内に移築された忍者の家屋で伊賀流忍者博物館と隣接しています。
伊賀市川東の忍者屋敷群
天正伊賀の乱の激戦地の一つである伊賀市川東地区には現在も多くの忍者屋敷の遺構が存在しています、忍者屋敷と言っても戦乱の時代に内部がカラクリ屋敷であったわけでは無く当時としては極一般的な土豪の館でした、しかし川東地区付近には数十もの忍者屋敷が点在して各屋敷が密集した体系を組んだ砦と成っています、この様な状況は関東には見られせん、まさに忍者ならでわの防衛手段と言っていいでしょう。
(天正伊賀の乱当時の川東地区イメージ)
天正伊賀の乱に措いて伊賀忍者衆の拠点の一つに成った丸山城、壬生野城を中心に各忍者屋敷が点在しています。
澤村氏館
澤村氏は平安期以前からこの地に土着していた土豪で幕末忍者である一族の澤村甚三朗保祐はぺりーの黒船を探索したと云います。
大深氏館と五百田氏館
大深氏館と五百田氏館は隣接するかたちで建ち並んでいます、大深氏、五百田氏共に天正伊賀の乱では壬生野城に籠城しました。
(大深氏館、 五百田氏館、)
街道沿いに点在する土豪の館群(忍者屋敷群)
これら土豪の館は街道沿いに点在しています、もともとこの館の土豪達の荘園は此処とは別の場所に在り戦時を考慮して街道筋を押さえる為にこの様に街道沿いに密集するかたちで館を建てたのでしょう。
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