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 近代の軍艦史        
         
ペリー艦隊来航   
         
         
   
         
ペリー艦隊CG 鉄甲艦の時代CG   
         
 1853年(嘉永6年)の7月8日に「マシュ-、ペリー」提督率いるサスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマスの4隻の米艦隊が突然浦賀沖に出現して鎖国中の日本国に衝撃を与えます、その目的は以下の通りです。   
 1、日本に開国を申し出る、   
 2、太平洋航路を開き日本をアジア貿易の中継地とする、   
 3、日本国を小笠原諸島近海の鯨猟の補給基地とする、   
 特に3、は重要視され小笠原諸島に生息するマッコウクジラの鯨油は当時燃料として貴重価値があったのです、ペリー艦隊以前にも米国、露国などが数回開国交渉を日本の求めていましたが何れも進展性の無いまま不発に終わっています、そこで今回は蒸気艦隊による軍事力を持って強行手段で交渉を求めたのです。
 米艦隊の出現に浦賀奉行は早急に幕府へ報告します、報告を受けた幕府は米艦隊に対して浦賀から久里浜への移動を指示して此処で交渉を行います。 
 

 
         
久里浜での交渉   
         
   
(ペリー艦隊が上陸した久里浜)   
         
 ペリー艦隊は1852年11月24日にアメリカバージニア州ノーフォークを出航して同年12月12日にマデイラ諸島、翌年1月10日にセントヘレナ島、1月24日にケープタウン、2月18日にモーリシャス島、3月10日にセイロン島、3月24日にシンガポール、4月7日に香港、5月4日に上海、5月26日に琉球(此処で琉球王国に開港を求める)、7月8日浦賀と約7ヶ月半を費やして日本に来航しました。  
ペリー艦隊航路MAP   
   
 (久里浜ペリー記念館)  (ペリー来航記念碑)  
         
 浦賀に到着すると蒸気艦ミシシッピに護衛された米測量隊のボート隊は江戸湾のいたる所の測量を開始します、その後、来航より6日目の7月14日にアメリカ大統領ミラード、フェルモアの親書が幕府側の戸田氏栄、井戸弘道に手渡され大した交渉もなされぬまま7月17日にペリーは来春再来航の旨を伝え江戸湾を後に帰航しました。
 
 第一回のペリー艦隊来航に際して以下の様なエピソードがあったと云います。  
 ペリー艦隊は琉球に寄港中にまだ未開であった小笠原諸島を探検し小笠原諸島の米国領有権を主張しますが後に英国とロシアの反発により断念します。
 久里浜に停泊中に艦隊は数十発の砲弾を発砲し幕府と久里浜の領民に対して恐怖心を与えたとされていますが此れはアメリカ独立記念と号砲の為の空砲で幕府の承認を得ています。
 

 
         
 下田での交渉   
         
   
 1854年(嘉永6年)1月14日ペリー提督は蒸気艦サスケハナ、ポーハンタ、ミシシッピと帆走艦レキシントン、サウサンプトンを率いて香港を出航します、途中那覇で帆走艦マセドニア、サプライ、バンダリアと合流しました、2月11日サウサンプトンが浦賀に到着、続いて2月13日にサスケハナ、ポーハンタ、ミシシッピ、マセドニア、バンタリア、レキシントンが到着、遅れて将軍への進呈品を上海で積んだサラトガとサプライが到着して合計9隻の艦隊が江戸湾に終結しました、幕府側は取りあえず開国を受け入れ3月31日ペリーは500名の将兵、船員と共に横浜村に上陸し日本側と日米和親条約を締結させます、その後ペリーは函館を視察した後に下田の了仙寺で幕府と交渉の末に下田条約を締結して6月25日に帰航します、途中琉球に立ち寄り琉球王国とも正式に通称条約を結びました、しかし実際のところ1861年にアメリカで南北戦争が勃発した為に国内事情に追われ日本との外交は先送りと成り変わってイギリス、フランス、ロシアが日本との関係を深めています。   

 
         
 下田寝姿山   
         
   
 (寝姿山山頂から見た下田湾) (寝姿山砲台)  
         
 下田の町を歩いて黒船来航に関する史跡を見てみましょう、寝姿山は山の形が偉人の寝ている姿に似ている事からそう呼ばれています、下田は江戸~大阪間の航路の寄港地で舟番所が置かれていました、1849年(嘉永2年)に英国測量艦マリナ号が下田に入港しようとしたと云います、その事で幕府は急遽寝姿山に砲台を設けました、寝姿山山頂へは伊豆急下田駅前からロープウェイで登ります、山頂からはペリー艦隊が停泊した下田湾を一望できます。   

 
         
八幡山宝福寺  
         
   
 駅前に戻りロータリーから大通りを南へ進むと日米和親条約後に仮の下田奉行所となった宝福寺があります、下関条約締結の際には幕府側の打合せ場所となりロシア使節プーチャーチン来航による日露和親条約の時も日本側の協議が此処で行われています。
 1863年(文久3年)には当寺に土佐藩山内容堂が宿泊しているところへ勝海舟が訪れ坂本龍馬の脱藩を願ったと云います、また宝福寺には駐日アメリカ合衆国大使ハリスに仕えた「お吉」の墓があり「唐人お吉記念館」が隣接しています。 
 

 
         
 了仙寺   
         
   
 大通りを更に南へ進むと了仙寺の北側に出ます、日米和親条約が締結され下田が開港されるとペリー達一行は下田へ上陸し此処了仙寺で幕府側の全権大使「林復斎」と下関条約を調印しています。   

 
         
ペリーロード   
         
   
 了仙寺の参道であるペリーロードは黒船来航を記念して古い町並みが保存されています、下田に上陸したペリー達はこの道を通り了仙寺へ向かったと云います。   
   
    (ペリーロードの脇に置かれた復元カロネード砲)   

 
         
長楽寺   
         
    
 ペリーロードから脇道に反れると大浦山長楽寺の参道が繋がっています、1854年(安政元年)にロシア使節プチャーチンと日本側の全権大使「筒井政憲」、「川路聖謨」が日露和親条約を長楽寺で締結させています、それにより北方四島は日本の領土で樺太は両国が共有する事が定まりました、その翌年の安政2年には日米和親条約批推書が米国使節アダムスと間で交換されています。  

 
         
ペリー上陸の碑   
         
   
 ペリーロードから海岸通りを進むとペリー上陸の碑が建っています、此処下田公園はペリー艦隊が上陸した地です、1854年(安政元年)日米和親条約が締結されると下田が開港されます、下田は外洋に接して安全で船舶の出入りが容易である事にペリーは大変満足したと云います。   

 
         
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