近代の軍艦史 | ||||
(装甲艦東型) | ||||
クリミア戦争(1853年~1856年)でイギリス、フランスの艦隊が黒海沿岸に向けて放つロシア軍の炸裂弾に対して非常に悩まされた経験からイギリスとフランスは大型装甲艦の建造に着手します、最初に完成したのがフランスのラ、グロワール装甲巡洋艦5600tで1859年に進水します、続いて1860年に装甲戦闘艦ウォーリア9210tがイギリスで完成しました、ウォーリアはラ、グロワールの2倍近い規模で両艦以前に建艦された1000t前後の装甲艦とは全く別物でした、更にウォーリアには当時最新とされた後装式アームストロング砲を14門も装備して船体全面に11cmもの重装甲を施しながら汽走のみの走行で14,5ノットも出せる戦列艦そのものでした、それ以後、各国海軍は木造汽走艦から鉄甲艦へと転換をはかります。 | ||||
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装甲艦モニター | ||||
起工1861年 | 排水量987t | |||
52m | 速力8ノット | |||
スクリュー式装甲艦 | 1862年沈没 | |||
(モニターに搭載された回転式砲塔) | ||||
アメリカ南北戦争中にスウェーデン技師「ジョン、エクソン」により設計された北部海軍の装甲艦です、船体は鋼鉄により全て装甲が施され甲板には当時世界最初の回転式の砲塔が搭載されています、その砲塔内には2門の28cmダールグレン滑腔砲が格納されています、わずか2門の大砲ですが周囲8方向へ砲門を向けられる為に10門以上の砲を搭載したのと同じ装備です、船体は喫水線が非常に低く船体の大半が海中に沈みこんだ状態で更に甲板上には砲塔以外に目立った突起物は在りません(煙突は収納式です)、これは敵の砲弾を避ける為の構造です、以後この様な小型の船体に1基ないし2基の砲塔に巨砲を格納した艦をモニター艦と呼ぶようになりました、モニター艦は河川での戦闘や陸上への艦砲射撃で大いに活躍しています。 | ||||
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装甲艦バージニア | ||||
起工1862年(改装) | 排水量3200t | |||
全長84m | 速力9ノット | |||
スクリュー式装甲艦 | 1862年爆破、破壊 | |||
モニターが進水した頃にアメリカ南部海軍も装甲艦の建造に着手し装甲艦バージニアを完成させます、建造と言っても座礁、半沈没状態であったフリゲート艦メリマックを修復して装甲を施した艦です、装備された大砲は17,8cmライフル砲2門、15、2cmライフル砲2門、23cmダールグレン砲6門、12ポンド曲射砲2門の多砲艦です。 | ||||
1862年(3月8日)ハンプトン、ローズを封鎖する北部の艦隊に対してバージニアは砲撃をかけます、その砲撃で北部艦カンバーランドとコングレスの二隻を撃沈させたバージニアは砲撃戦の終了後に一時戦場を離れ退去します、この時バージニアはカンバーランドとコングレス、更には海岸砲の攻撃で煙突が損傷し速力が低下したと云います、また搭載した大砲の内2門が使用不可となりました。 その翌日、3月9日今度は見た事も無い装甲艦がバージニアの前に現れました、装甲艦モニターです、モニターは先日撃沈された2艦の敵討ちに来たのです、両艦は数時間に及ぶ砲撃戦行っています、此の砲撃戦が世界初の装甲艦同士の海戦であるハンプトン、ローズの海戦です、しかし両艦装甲艦であったが為に互いに致命傷を与える事ができずに後退しました、モニターは同年12月31日ノースカロライナ州ハッテラス岬沖で高波にのまれ沈没しています、砲弾を避ける為に船体を低くしたのが災いしたそうです、一方バージニア艦は本来木造艦であった為にハンプトン、ローズ海戦で受けた砲弾により内部の竜骨などの基礎部分が激しく破損していました、また南部連合軍は占領していたハンプトン 、ローズの町ノーフォークから撤退せざるおえなくなりバージニアは撤退の際の外洋航海には耐えられないと判断して爆破撃沈されました。 |
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装甲艦東型 | ||||
起工1863年(フランス、ボルドー造船所) | 排水量1358t | |||
全長59m | 速力10,5ノット | |||
スクリュー式装甲艦 | 退役1888年 | |||
開国後に江戸幕府は観光丸(オランダ製)、咸臨丸(オランダ製)、幡竜丸(イギリス製)・・・・・などの軍艦を多数海外に発注します、また1867年(慶応3年)には2600tもの大型フリゲート艦である開陽丸をオランダより購入しました、しかし時代は鉄甲艦の時代で旧式の木造艦と鉄甲艦では戦闘能力の差はハンプトン、ローズ海戦で見る様に歴然としていました、そこで幕府はアメリカより装甲艦ストーンウォールの購入します、この装甲艦ストーンウォールは当初南北戦争中にアメリカ南部連合がフランスに発注したもので戦後になりアメリカ政府は江戸幕府に売り渡そうとしたのです、しかし大政奉還後に政権が新政府に変わるとアメリカ政府はストーンウォールを新政府へ引渡しす事に成りました。 | ||||
(主砲28cmアームストロング砲搭載の艦前方部の砲塔) | ||||
新政府に引き渡されたストーンウォールは「甲鉄」と呼ばれました、その装備は艦の前方と後方に一箇所ずつ固定式砲塔が配置され前方部砲塔には28cmものアームストロング社製前装式滑腔式砲1門、後部砲塔には同じくアームストロング社製12、7cm前装式ライフル砲2門を装備しています、これら大砲は砲塔内に敷かれているレールにより方向を変える仕組みです。 | ||||
(12,7cmアームストロング砲を搭載した艦後部の砲塔) | ||||
甲鉄は当時幕府海軍の主力艦である開陽丸より小ぶりですが戦闘能力的には上回るとされていました、その装甲はラ、グロワールやウォ-リアの砲撃に耐えうると云われ新政府艦隊の旗艦となるべき艦でした。 甲鉄の蒸気機関が2基のスクリュー2基で1200hpまで引き出します、機関、スクリューがそれぞれ一基づつある為に機関故障、もしくはスクリュー脱落などの場合でももう一基で走行可能です。 |
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(アームストロング砲) | ||||
1869年(明治2年)5月6日、戊辰戦争の最中に宮古湾で停泊中の甲鉄に対して旧幕府軍の回天丸がアメリカ国旗を偽装に掲げて接近し海軍奉行「新井郁之助」、「土方歳三」の指揮で神木隊、彰義隊など100名程が甲鉄に踏み込んできました、幸い甲鉄にはガトリング機銃が搭載されていたので銃弾を撒き散らしながら抵抗し新政府艦隊の春日丸なども即座に応戦した為に旧幕府の決死隊は撤退して宮古湾から逃走しました、此れが宮古湾海戦です。 1872年(明治5年)に甲鉄は「東型」と改名されます、その後、台湾出兵や西南戦争などにも出動したと云われています。 |
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