関東、温泉と旅行記 |
宇都宮、日光方面 | |||||||||||||||
日光東照宮の門前町である鉢石宿に到着です、鉢石宿は元々、鉢石村と呼ばれる村落でしたが1617年(元和3年)東照宮に徳川家康の御霊を祀る事によりそれ以後、門前町として大いに賑わったと云います、1843年(天保14年)の人口は985人、家屋223軒、本陣2軒、旅館19軒で中規模の宿場町でした、宿の町並は5町(500m)程、東(東武日光駅)から松原町、石屋町、御幸町(新町)、下鉢石町、中鉢石町、上鉢石町と町割りがなされその先は神橋へと通じていました。 | ||||||||||||||||
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松原町の大木戸 | ||||||||||||||||
東武日光駅のロータリー付近から鉢石宿の東口でる松原町でした、その入口には冠木門の大木戸が構えられていました、此処松原町、その先の石屋町、御幸町は1640年(寛永17年)の日光山の本格的整備に伴い周辺村落を移住させて成立させたと云います。 | ||||||||||||||||
大木戸をくぐり直ぐ左側には番所、高札場が設けられていました。 | ||||||||||||||||
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鉢石宿、石段の町並 | ||||||||||||||||
現在、東武日光駅から神橋に向かってゆるやかな勾配と成っています、寛永17年の日光山整備により鉢石宿内の日光街道筋には石段が設けられています、街道の勾配に合わせて段々に神橋へとを登る石段です。 その石段の路地の中央には水路が通されていました。 |
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町割りの木戸 | ||||||||||||||||
松原町、御幸町、石屋町の境は木柵、木戸により町割りがなされていました、東照宮の門前町である鉢石町は警備、景観、都市機能と全てに意識されて造られた町並でした。 | ||||||||||||||||
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竜蔵寺 | ||||||||||||||||
日光街道筋を西へ進みます、御幸町へ入った所の右に竜蔵寺の参道が通じています、1205年(元久元年)畠山重忠が北条義時に殺害されその子息「重 慶」は日光に逃れて僧と成りました、日光山座主「弁覚」は重慶に謀反の疑いありとして鎌倉幕府に訴え重慶は斬首されます、しかしそれは誤解でそれを悔いた弁覚は重慶の供養の為に此処に竜蔵寺を建立したと云います。 | ||||||||||||||||
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正一位稲荷神社 | ||||||||||||||||
(西行法師戻石) | ||||||||||||||||
竜蔵寺の裏手には1218年(健保6年)に建立された正一位稲荷神社があります、その境内に巨石があり西行戻石と呼ばれています、鎌倉期、西行法師が鎌倉を訪れた時にこの巨石の上に子供がいたので西行法師が何処へ行くのかと訪ねると子供は(冬萠きて夏枯れ草を刈りに行「麦刈の事」)と歌で答えました、この子供は日光権現の化身でそれに驚いた西行法師は男体山に手を合わせてそのまま引き返したとの伝説があります。 | ||||||||||||||||
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大杉神社虚空蔵尊 | ||||||||||||||||
(太子堂) | ||||||||||||||||
正一位稲荷神社の正面の通りを西に進むと煌びやかな御宮造の社殿が見えます、大杉神社虚空蔵尊で1640年(寛永17年)に神橋右岸の「星の宮」より分霊され東町六ヶ町の鎮守とされたと云います、現在その社殿は県の文化財に指定されています。また大杉神社の境内には聖徳太子を祀った太子堂も建立されています。 | ||||||||||||||||
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中鉢石町、上鉢石町 | ||||||||||||||||
日光街道筋に戻り中鉢石町を抜けて上鉢石町を通ります、この辺り日光社の門前町らしく格子窓の商家や蔵造の店が街道の両脇に幾つも点在しています。 | ||||||||||||||||
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神橋 | ||||||||||||||||
上鉢町を抜けると大谷川に突当たります、その左方向へに架かる朱色の橋が日光山の入口神橋です、長さ26m、幅6m、高さ10mの大橋で当初「山菅橋」と呼ばれ橋脚の無い橋として知られていましたが1636年(寛永13年)の東照宮造営に伴い橋は架け替えられ石の橋脚により支えが施され名称も「神橋」と改名されました、この神橋は一般の人の通行は認められず、 日光参拝の将軍、修験者のみにかぎられていました。 | ||||||||||||||||
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日光山表参道 | ||||||||||||||||
(中山通り) | (表参道) | |||||||||||||||
神橋正面の坂を登ると輪王寺宝物殿の東側を通る中山通りでそこを直進すると表参道へ出ます、表参道の正面が日光東照宮で西側が輪王寺、東側が大猷院(輪王寺所属)で大猷院の北側が二荒山神社です。これら東照宮、輪王寺、二流山神社の2社1寺を総じて日光山と称します。 | ||||||||||||||||
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日光山輪王寺 | ||||||||||||||||
輪王寺の創建は奈良時代にさかのぼり勝道上人による開山とされていますが、当時の記録にはその事実が存在しないので確かな事はわかりません、しかし二流山神社と共に奈良時代、山岳信仰の社寺として創建された事は事実です。また輪王寺の別院である中禅寺が中禅寺湖の畔に建立されています、此処も勝道上人の開山とされています。 輪王寺から表参道を挟んだ向かい側の大猷院は三代将軍徳川家光の墓所です。 |
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(大猷院仁王門) | (大猷院常行堂) | |||||||||||||||
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日光東照宮 | ||||||||||||||||
(表門) | (上神庫、中神庫) | |||||||||||||||
表参道を進み東照宮の境内に入ります、日光東照宮は徳川家康を東照大権現として祀り全国の東照宮の総本山となっています、1616年(元和2年)徳川家康が駿河国で死去すると久能山(久能山東照宮)に葬られましたが翌年、日光に遺骨が移されました。 表門をくぐると正面に上神庫、中神庫が建っています、これと西側の下神庫を合わせて三神庫と呼び中には春秋渡御祭に使用する馬具、装束類が納められています。 |
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(陽明門、修復作業中) | ||||||||||||||||
表門をくぐった左側はあの有名な「見ザル、聞かザル、言わザル」が掘り込まれた神厩舎で上神庫の東側を抜けた先が陽明門です。 | ||||||||||||||||
(神與舎) | (唐門) | |||||||||||||||
陽明門を抜けると左側は見越しが納められた神與舎で正面が唐門です、この唐門の内側は拝殿と本殿が建てられています。 | ||||||||||||||||
(祈祷殿) | ||||||||||||||||
唐門の東には結婚式などを行う祈祷殿です、その並びの坂下門には左甚五郎作の「ねむり猫」が掘り込まれています。 | ||||||||||||||||
(奥拝殿) | (鋳抜門) | |||||||||||||||
坂下門から坂道を登ると将軍しか参拝が認められなかったとされる奥拝殿(家康稜)でその裏手は鋳造した銅を組み立てて造られた鋳抜門です。 | ||||||||||||||||
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二流山神社 | ||||||||||||||||
日光山二流山神社は下野国の一宮で勝道上人が767年(景雲元年)この地に祠(別宮本社神社)を建てたのがはじまりです、782年(延暦元年)には男体山の山頂に奥宮を建立、その2年後には中禅寺湖畔に中宮を建立しています、二流山とは本来「男体山」を意味するもので二流山神社は日光三山の男体山、女峰山、太郎山を神として祀っているのです。 | ||||||||||||||||
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日光街道 | ||||||||||||||||
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