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築造年代 5世紀後半頃 |
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群馬県高崎市三ツ寺で1981年~1983年にかけて上越新幹線開通工事に際し発掘調査が行われ5世紀後半の豪族の居館址と考えられる遺跡が発見されました、丁度同じ時代に三ツ寺遺跡より北西1.5kmの位置に三基の巨大古墳からなる保渡田古墳群が築造されている事からその墳丘に埋葬された人物が三ツ寺館の主であったとされ当時「上毛野国」(現在の群馬県)に一大勢力を保っていた上毛野君が該当すると言う説が有力視されています、その館は一辺が大凡90mの方形状で付近の河川から入水した水堀が外周を囲み内部は柵、塀により4区画に分けられています、また三ツ寺遺跡を囲む様に集落跡の遺跡が発見されています、それらは三ツ寺館に関係した人々の集落群であったのでしょう。 |
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三ツ寺館西側 |
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三ツ寺館の西側は幅30m、深さ4m程の水濠で館区画からは北西面と南西面に2箇所づつ張出が設けられています、この張出は船着場であったとも中世城郭の出枡型の様な堀を超えて侵入する敵に対する横矢の仕掛であったとも言われています、また館区画の四方壁面は葺石が施されていました。 |
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館東側 |
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三ツ寺館の東側は西側の水濠よりも狭く館からの張出も見られません。 |
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館北側 |
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三ツ寺館は南北に館の角を合わせています、その南北の角は館の出入り口と成っていました、出入り口は堀の外に独立した敷地が在り橋を渡ると柵で囲まれた張出が設けられています、これは館の防衛を意識した造りで橋も曳き橋もしくは上げ橋であったとも考えられます。 |
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館周囲の塀と柵 |
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館の周囲四面は柵で囲まれ更にその内側に木塀が囲み柵と木塀の間は通路状に成っていました、此れもまた館の防衛を意識した造りです。 |
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三寺館内の北区画 |
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三ツ寺館内部は東、西、南、北の4区画に分けられていました、北側の出入り口から北区画に入ると三ツ寺館の使用人もしくは館主の臣下の住居と考えられる竪穴式住居が建ち並んでいました。 |
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館内の東区画 |
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東区画には税として徴収した穀物などを保管する倉庫群と成っています、また東区画にも竪穴式住居址が確認されています。 |
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館内の南区画 |
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館内の南区画から数基の石柱が見つかっています、此れは南区画が祭場であったと考えられます。 |
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館内の西区画 |
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(領主の祭壇) |
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西区画には領主の屋敷と思われる13.6mx14.1mの堀立柱建物が建ちその正面には円形状に石が敷詰められた領主の為の祭壇が造られていました、この西区画は外部から直接入る事はできず祭場である南区画を通り抜けてから入ります。 |
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屋敷の西側に領主の水場と成っていた井戸址が見つかっています。 |
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館南側の出入り口 |
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館の南側の角にも出入り口が在りました、北側の出入り口と同様に柵で囲まれた出張りから橋を渡り堀の外のもう一つの独立区画へと通じる造りに成っています。 |
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三ツ寺遺跡と類いする遺跡 |
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三ツ寺遺跡の様な豪族の館と考えられる遺跡が同じ群馬県内から見つかっています、三ツ寺遺跡から北東3kmに位置する北谷遺跡や前橋市西大室町の大室古墳群に隣接する梅ノ木遺跡なども同様な豪族の館址とされています、これら館は首長もしくは国造の館でその頂点に君臨していたのが関東最大の豪族である上毛野君であったのでしょう、その上毛野氏の財力は他の地域の豪族達の財力をはるかにしのいでいました、三ツ寺館が使われていた5世紀後半から6世紀前半に榛名山が2度に渡る大噴火を起していますがそれをもろともせず現高崎周辺の開拓事業が押し進められています、此れは上毛野氏の財力のなせる業です。 |
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