築造年代 5世紀初頭~7世紀初頭(推定) | ||||
上毛野国(群馬県)の大型前方後円墳築造時代に高崎市の南部綿貫町には3基の100m級の前方後円墳と70m級の前方後円墳が1基が造られていました、綿貫古墳群と称されその規模や副葬品などから関東においてかなりの有力な豪族の墓であったと考えられています、その当時群馬県内で其れなりの力を持った有力豪族と言えば崇神天皇の皇子「豊城入彦命」を祖とする上毛野君(上毛野氏)が該当します、毛野氏は代々上毛野国の長官職である「上毛野国造」を受け継ぎ同県の太田市付近を本拠として此処に東日本最大の前方後円墳である天神山古墳を築くに至ります、その後如何なる経緯かはわかりませんが現在の高崎市綿貫町に墓所を移転し観音山古墳、二子山古墳の100m級の墳丘を構築したとされています。 | ||||
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綿貫観音山古墳 | ||||
観音山古墳は綿貫古墳群4基の前方後円墳の内最も新しく築造年代は6世紀後半から7世紀初頭と言われています、それら4基の墳丘の北端に位置して墳丘規模は全長97m、最大幅64mで外周は中堤を境にした二重の周溝が囲んでいます。 | ||||
観音山古墳後円部 | ||||
後円部は高さ9.5mの三段築成で南西方向に横穴式の石室が開口しています、石室からは銅鏡や金、銀、銅製の装身具、銅製の水瓶など多数の貴重な副葬品が発見されています、徳に銅製の水瓶などは当寺まだ日本国内ではさほど普及に至らなかった仏教に用いる仏具に一つで観音山古墳の主とその一族は独自の文化を保っていたとされています。 | ||||
(石室) | ||||
更に石室から見つかった獣帯鏡は百済国の武寧王稜から発見された獣帯鏡と同一の鋳型で造られた物であり東南アジア製です、此れら朝鮮半島、東南アジアとの交流を示す副葬品や墳丘の規模などから当時関東に勢力を持ち外交にも通じていた上毛野氏が観音山古墳の主と考えられています、丁度同時期に「上毛野君小熊」なる人物が武蔵国造である笠原氏の内紛(武蔵国造の乱)に関与しています、この上毛野君小熊は上毛野国造であり観音山古墳に埋葬された人物であったとの見解があります。 | ||||
(後円部上段のテラス) | ||||
横穴石室の開口されている後円部上段のテラスは前方部のテラスへと通じて墳丘を一周しています、此処に多数の埴輪が置かれていました。 | ||||
観音山古墳前方部 | ||||
前方部は二段築成で高さ9mの最大幅64mで後円部より幾らか幅が広く成っています、方角は北西方向へ向けられています。 | ||||
外周の周溝 | ||||
(周溝と中堤) | ||||
観音山古墳の外周は中堤で区分けされた二重の盾形の堀と成っています。 | ||||
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普賢寺裏古墳 | ||||
観音山古墳の南側に全長70mの前方後円墳である普賢寺裏古墳が在ります、普賢寺裏古墳の築造は5世紀前半で4基の古墳の中で最も早い時期です、後円部が二段築成で前方部が一段と成っています。 | ||||
(前方部) | ||||
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不動山古墳 | ||||
不動山古墳は普賢寺裏古墳の北に位置しています、築造は5世紀後半で普賢山古墳の後に造られました、全長は94mで後円部は二段築成、前方部は一段でその北側には祭祀を行う造出が設けられています。 | ||||
(前方部) | ||||
現状前方部は大きく削り取られています。 | ||||
不動山古墳後円部 | ||||
後円部は二段築成で高さが約10mありその頂上が不動山古墳の最高地です、最高地には舟形石棺がむき出しの状態で置かれていた事から当時の後円部は更に高く土が盛られていたと考えられています。 | ||||
(後円部頂上の舟形石棺) | ||||
外周の堀 | ||||
不動山古墳の外周は盾形の一重の堀が確認されています。 | ||||
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岩鼻二子山古墳 | ||||
不動山古墳の更に北側には綿貫古墳群最大の前方後円墳である岩鼻二子山古墳が存在していました、現状高崎量子応用研究所の敷地内で墳丘、堀などは全て消滅しています、全長115mの二重の堀で囲まれ築造年代は観音山古墳より幾らか早い6世紀中頃と考えられています。 | ||||
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