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(古墳群北側) |
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築造年代 弥生時代後半~6世紀末 |
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甲府市南方の笛吹川沿いの曽根丘陵公園には古墳時代初期の大型前方後円墳、円墳、弥生時代後期の墓所でる方形周溝墓が多数密集しています、3世紀頃までこの辺りは弥生人の居住する地でありヤマト王権の勢力は甲府盆地周辺には及んでいませんでした、「宋書倭国伝」に当時の関東北部の様子を(東に毛人を征すること五十五国)とあり毛人とは蝦夷を指していてそれらが征する五十五国とは「毛野国」(現在の群馬県、栃木県)を意味しています、また「魏志倭人伝」によれば当時「邪馬台国」の東に同国と交戦状態にあった狗奴国が存在したと書かれています、現在最も定説とされる邪馬台国の位置は北九州から畿内(奈良県周辺)に至る地域を征していたされその範囲を分国した連邦国家でありそれに対する狗奴国は東海地方に存在していたと考えられてます、その事から当時の関東近辺は東海方面に邪馬台国と対立した狗奴国、関東北部に蝦夷人の居住区、南部には狗奴国と同盟関係結んでいた弥生人達の小国家が幾つも点在していたと言われています、その後邪馬台国は狗奴国を制圧してヤマト王権を設立させ本格的関東進出に乗出します、同じ頃甲州は弥生人、蝦夷人の同居する地であり方形周溝墓などが多数築造されその後にヤマト王権の支配体制に組み込まれる事により大型前方後円墳が各地に造られます。 |
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銚子塚古墳 |
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銚子塚古墳は全長169mで4世紀後半の築造です、後円部は三段築成で噴石が施され前方部は二段築成で噴石はありません、比較的後円部に対して前方部が細長く造られています、築造当時は東日本最大の前方後円墳でこの頃にヤマト王権の勢力が甲州地方に波及した証と言えるでしょう。 |
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日本書紀によれば日本武尊、豊城彦命(崇神天皇の皇子)などの将軍達が東国制圧の為に遠征を行っています、その時期は大凡3世紀末から4世紀初頭で銚子塚古墳が築造される幾らか前の時代です。 |
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銚子塚古墳後円部 |
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後円部は直径92m高さ15mで三段築成で噴石が側面に施されています、北側には造出が設けられ墳頂には竪穴式の石室が在ります。 |
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墳頂の石室は割石小口積で底は粘土床であり割竹形の木棺が置かれていました。 |
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(墳頂部石室) |
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銚子塚古墳前方部 |
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前方部は幅69m、高さ8.5mの二段築成で細長い形状が特徴です。 |
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丸山塚古墳 |
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銚子塚古墳の100m程東に直径72mの円墳である丸山塚古墳が造られています、高さ11mの二段築成で5世紀初頭の築造です、墳頂には長さ5.5mの竪穴式石室が設けられています、その床の部分には赤色の顔料が塗られていました。 |
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(墳頂部石室) |
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岩清水遺跡 |
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丸山塚古墳の直ぐ東側に弥生末期の円形周溝墓1基と5世後半の円形周溝墓2基が見つかっています。 |
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(5世紀後半の周溝墓1) |
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弥生末期の周溝墓は直径26m、5世紀末の周溝墓は直径30mあり中央に通路が設けられています、この5世紀末の周溝墓は北隣のカンカン塚古墳の近親者もしくは臣下の者の墳丘と考えられています。 |
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(弥生末期の周溝墳、 5世紀後半の周溝墓2、) |
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カンカン塚古墳 |
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岩清水遺跡の北側にはそれと関連するカンカン塚古墳があります、岩清水遺跡の2基の周溝墓と同時期の5世紀後半に築造された直径26mの円墳です、当時銚子塚古墳、丸山塚古墳の被葬者氏族の勢力が甲府盆地周辺に分散され墳丘も小規模化されたと考えられています。 |
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(杯塚) |
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カンカン塚古墳の東側に中世の頃に信仰目的で造られた杯塚があります。 |
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八乙女古墳石棺と博物館内古墳 |
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(八乙女古墳の石棺、 博物館内古墳、) |
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カンカン塚古墳と杯塚の東には考古学博物館がありその敷地内に北東2kmの位置に存在していた八乙女古墳から移された4基の石室と6世紀後半の墳丘があります、八乙女古墳は全長60mの前方後円墳で近くから直径13mの円墳も見つかっています、築造期は大凡5世紀中頃で銚子塚古墳、丸山塚古墳を築造した氏族の分流とされています、同敷地内の墳丘は直径15m程の円墳で大半が破損した状態に成っています。 |
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(敷地内の縄文期敷石住居) |
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敷地内には3800年前の縄文期の敷石竪穴住居跡も移築されています。 |
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