(古墳群南丘陵部)
大丸山古墳
銚子塚古墳、丸山塚古墳を眼下に見下ろす南側の台地上(東山)には前方後円墳の大丸山古墳があります、規模などは不明ですが大凡全長100m程に見えます、銚子塚古墳、丸山塚古墳に次いで築造されたと考えられています。
東山北遺跡
(2号方形周溝墓、 1号方形周溝墓、)
大丸山古墳の東側に2基の4世紀末に造られた方形周溝墓があります、銚子塚古墳と同時期に築造され内2号周溝墓は最大長36mの全国最大規模の方形周溝墓です、また付近には弥生末期の住居跡が28基発見されこれら住居跡から炭、「焼け土」、燃やされた状態で散乱した米などが見つかっています、この事から当時この地で戦乱があったとされ先住の弥生人と侵攻した倭人の紛争とも言われています。
東山南遺跡
(弥生末期の方形周溝墓)
現在の風土記の丘研修センターの付近は東山南遺跡とされ2基の弥生末期の方形周溝墓と5世紀代の円形周溝墓8基と方形周溝墓が1基発見されています、この様に東山古墳群は4世紀と5世紀を境目に新旧の居住者が入れ代わるかまたは旧者が新規参入者に属したか大きな文化的変革が有りました。
(5世紀代の円形周溝墳群、 弥生式住居跡、)
東山南遺跡からは2世紀代の弥生式住居跡も見つかっています、この弥生式住居は奥行4.8m、間口3,6mで4本の柱で支えられていました。
稲荷塚古墳、鍋弦塚
(稲荷塚古墳、 鍋弦塚、)
東山南遺跡北西の低い位置に6世紀後半に造られた直径8.5mの円墳「稲荷塚古墳」と14世紀代の中世墳墓で鍋弦塚が在ります。
上の平遺跡
東山南遺跡の東方向で東山東端に位置する上の平遺跡は弥生末期の方形周溝墓が128基と同時代の住居跡が20基確認されています、方形周溝墓の数では東日本最大で当時この辺り一帯に居住する弥生人達の共同墓地であったのでしょう、その規模から推定すると一集落に限らず幾つもの集落の共同墓地で曽根丘陵とその付近にはそれら集落が結合した弥生人の国家が倭人の入る以前から存在していたとも考えられます。
方形周溝墓は家族単位で埋葬する一般農民の墓で規模はそれぞれ異なりますが一本の渡り橋である土橋を残して方形状に溝を掘りその土を方形状に区画された中に盛った簡素な古墳です、この方形周溝墓に造出が設けられ後年には前方後方墳となります、一説に日本各地に造られた前方後円墳は前方後方墳から進化したものとされ前身である周溝墓は古墳の起源とも言われています。
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