関東、温泉と旅行記 | 入間、比企方面 | |||
大凡7世紀頃から比企郡小川町、外秩父一帯は和紙の生産地として知られています、小川和紙と呼ばれ江戸期に措いて江戸の町の紙の需要を一手にまかなう一大産地に成長していったのです、現在小川和紙とその手漉き製造法が東秩父村の無形文化財に指定されています。 我が国において紙の製造が始まったのは610年(推古18年)高麗の僧雲徴により伝えられたと日本書紀は記しています、一応これを国産紙の始まりとしていますがそれ以前から写経用の紙の製造が国内で行われていたとも云われ実のところ紙製造の起源は分かっていません、でわ小川町付近での紙の製造は何時頃からであったのでしょうか?奈良の正倉院文書によれば774年(宝亀5年)「武蔵紙四八〇帳、筆五〇管」が寄進されたとあり此れ以前から紙の製造が行われていた事に成ります、その製造法は当時武蔵国高麗郡(埼玉県日高市)に土着した高麗人(後の丹党高麗氏の祖)により伝授されたと考えられています、その後807年(大同2年)現都幾川村に慈光寺が建立されると写経が盛んに行われその用紙の生産により小川町付近での紙の業が確立されたのです。 |
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細川紙の導入、江戸の巨大市場相手に一大産地へ | ||||
1590年(天正18年)徳川家康が関東へ入府すると江戸の町は100万人を越える大都市と成り小川町を中心とした比企郡、男衾郡、秩父郡はその巨大都市の紙の消費を一手にまかなう一大産地へと成長します、また紀伊国の高野山麓の細川村で製産されていた細川紙の紙漉き製造法を伝授し上質の紙の生産にも取り組みます、当時紀伊国は徳川親藩の領有する所でありその関係で江戸での上質紙の需要をもっと消費地に近い比企、男衾、秩父の三郡に委託したたのでしょう、細川紙は楮皮100%で作る楮紙でその強靭で破れにくい特徴から役人や商家の帳面、台帳など重要な書類に用いられました。 当時この三郡においての紙漉き家の個数は大凡750軒で一軒あたり夫婦2人で紙漉き業を営んでるとして産地全体で1500人程の労働者が紙漉き業に従事していた事になり現在の上場企業並の規模を誇る大産地へと成長したのでした。 |
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厚手で耐久性に優れた細川紙、当時井戸に放り込みすくい上げても更に帳面として使用できたと云われています。 | ||||
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苦難の時代 | ||||
巨大紙業産地へ成長した三郡ですが末端の紙漉き業家にとっては必ずしも順風満帆な時代ばかりではありませんでした、小川町近辺の紙漉き歌に「いやだ いやだよ 紙すきや いやだ 夜づめ 早起き ひまがない ヨカコイ ヨカコイ・・・・・はれた はれたよ 晴天晴れに ピッカリ 千両の 紙を干す ヨカコイ ヨカコイ・・・・すいた もうけは かんだのように 問屋に しぼられる ヨカコイ ヨカコイ」苦労して漉いた千両の価値がある紙もその儲けはみな問屋にしぼり取られる内容の歌です、江戸期後半小川町周辺の紙漉き業は最盛期を向かえます、その為に江戸の紙問屋は力を増大させ三郡で生産される紙を江戸47軒の紙問屋が独占する事態と成り他への販売が禁止され更に紙の仕入れ値も問屋の話し合いにより取り決められてしまいました、その事により三郡の紙漉き業家、仲買業者は収益を得る事が困難になり苦しい生活を強いられます、そして終に1818年(文化15年)小川町を中心とした三郡の名主と仲買業者は幕府に問屋の横暴を訴えますがあえなく敗北、しかし1841年(天保12年)老中水野忠邦が問屋の特権を剥奪し他地域への紙の販売を許可する事により要約と事態が収まったのです、この苦境の時代にも比企郡で問屋からの圧力を受けず地道に収益を上げていた地域も在りました、比企郡玉川村などは逆に産地として認められず自由販売の制限無く利益を得る事ができたのです、ブランド名を勝ち取る事も良し悪しと言う事です。 | ||||
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