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上の平社宅群 |
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わたたらせ渓谷鉄道の終点駅である間藤駅で降りて本山製錬所まで歩いてみます、間藤駅から300m程歩くと右側に上の平社宅群が見えてきます、昭和30年代頃に建てられた様に思われます、家族寮でしょうか?中は2kです。 |
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足尾線の廃路線 |
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1914年(大正3年)足尾鉄道は足尾駅から足尾本山駅(本山製錬所)まで貨物路線が延長されました、主に本山抗から産出された銅鉱石、資材の運搬に使われた路線です、1973年(昭和48年)に足尾銅山が閉山した後も本山製錬所が稼動していたので輸入鉱石を製錬所に運搬する為にこの路線は使われていました、しかし1987年(昭和62年)に貨物輸送が廃止され後に廃路線となります。 |
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間藤水力発電所 |
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(間藤水力発電所の配水管) |
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上の平住宅群から300m程歩くと間藤水力発電所跡があります、間藤水力発電所は日本で最初の水力発電所でドイツのジーメンス社に発注して1877年(明治10年)に完成しました、上流から流れる水流を利用してタービンを回転させて400馬力の電力を発電させます、その電力は主に坑内の排水ポンプ、坑内鉱石輸送の電気鉄道の動力に使われています。当時、ドイツのジーメンス社はアジア方面の積極的な進出を計っていたので間藤水力発電所もその一環であったのでしょう、ジーメンス社は主に鉄道車両、発電機などを日本に売り込んでいました、1887年(明治20年)には東京に支社を設立しています。 |
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上間藤の商店街 |
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間藤水力発電所の先が上間藤の商店街でした、この辺り1853年(嘉永6年)に二宮尊徳が足尾に訪れた時には人口わずか90人の質素な集落でしたが古河市兵衛が足尾銅山の再開発に乗り出すと人口は一気に増えて1935年(昭和10年)には戸数330件、人口1488人と膨れ上がり足尾町で最も賑わう商店街となりました、その当時、上間藤の中央の路地にはガソリン機関車(足尾銅山馬車鉄道)軌道が敷かれていました。 |
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(大正期の上藤間商店街、クイックで拡大) |
(深沢の防火壁) |
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1887年(明治20年)に松木地区より発生した大火が此処、上藤間地区を焼失させたと言います、その後、上藤間の上手にレンガ造りの防火壁が建てられました。 |
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赤倉の町並 |
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(大正期の赤倉商店街、クイックで拡大) |
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上藤間商店街の少し先が赤倉の商店街でした、赤倉の商店街は上藤間同様、大いに賑わった商店街でした、1887年(明治20年)の松木の大火で一旦焼失していますがその後に復興し1907年(明治40年)には料理屋15軒、居酒屋13軒、質屋6軒と合計140軒の商店が建ち並ぶにいたります、しかし同年に鉱山夫の大暴動が発生して一時「赤倉の町」は衰退してしまいますが大正期はじめに更に復興しています、またその頃の足尾町の総人口も38、000人を数え足尾町の最盛期となっていました。 |
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此処、赤倉商店街にはガソリン機関車(足尾銅山馬車鉄道)の終点駅がありました、その赤倉駅を降りて古河橋を渡ると本山製錬所です。 |
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(足尾銅山馬車鉄道、ガソリン機関車) |
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古河橋 |
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古河橋はドイツ、ハーコート社に発注して1891年(明治24年)に完成した鉄橋です、それ以前に木造の「直利橋」が此処に架けられていましたが1877年(明治20年)の松木の大火により炎上崩落したと言います、古河橋は本山製錬所と赤倉地区を結ぶ重要な橋で完成翌年には電気車両の線路が敷かれています。 |
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本山製錬所 |
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古河橋と平行する新古河橋を渡ると足尾銅山で最大規模の製錬所、本山製錬所です、この本山製錬所は1884年(明治17年)に当時の最新技術を導入して設立されました、1973年(昭和48年)の閉山以後も海外からの銅鉱石の製錬作業は引き続き行われていましたが1987年(昭和62年)に閉鎖されています。 |
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(本山製錬所の大煙突) |
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何らかの理由で職員が現在も居る様でしたがちょと良くわかりませんでした。 |
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(足尾線、足尾本山駅手前の鉄橋) |
(本山製錬所敷地内の足尾本山駅、駅舎) |
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旧国鉄足尾線の高架が本山製錬所に向かってのびています、本山製錬所の閉鎖に伴い廃止された間藤駅~足尾本山駅間の鉄橋です、鉄橋の先は直ぐに本山製錬所敷地内で足尾本山駅は製錬された銅を運び出す為に本山製錬所内に建てられた貨物用の駅でした。 |
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本山動力所 |
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本山製錬所から本山の鉱山夫居住区へ向かって歩いてみます、数百m歩くと本山動力所が見えます、本山動力所は間藤水力発電所で発電された電気を使いコンプレッサーを稼動させて本山抗で使用される削岩機に圧縮空気を供給する施設です、1914年(大正3年)に設立され当時、最大馬力の320馬力大型コンプレッサーが導入されました、この大型コンプレッサーは現在も本山動力所内に保存されています。 |
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本山の町跡 |
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(閉山前の本山の町) |
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本山抗は本口抗、鷹の巣抗の続き1884年(明治17年)に開発されました、それに伴い製錬所、病院、学校などが建てられ鉱山夫の町が形成されました。 |
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(閉山前の本山の町) |
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1963年(昭和38年)の本山の人口は1167人、その10年後の昭和48年10月(閉山後)には誰も住んでいませんでした。 |
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(公衆浴場跡) |
(音楽ホール跡) |
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上左側の写真の橋を渡ると公衆浴場で、その公衆浴場の裏側には音楽ホール、公衆浴場の西側にはスケートリンク、東側は鉱山夫の詰所、詰所の裏側が本山抗口でした。 |
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(公衆浴場、音楽ホール、スケートリンク) |
(本山動力所付近) |
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