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通洞抗の電気トロッコ列車 | ||||
(通洞抗に入るトロッコ列車) | (主要坑道で使用された電気牽引車) | |||
通洞抗を見学してみます、通洞抗内は現在博物館として見学可能です、通洞抗内に入るにはまずトロッコ列車に乗車して抗内に入ります(徒歩でも入場可能)。足尾銅山では間藤に日本で最初の水力発電所が建設されました、それに伴い坑道内には銅鉱石排出の為に電気気動車が導入されます、これにより通洞抗など大規模坑道から産出された銅鉱石をスムーズに排出する事が可能に成ったのです。 | ||||
(トロッコ電気車両) | ||||
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通洞抗内 | ||||
(通洞抗口) | (トロッコ列車の降車駅) | |||
トロッコ列車で通洞抗口に入ります、通洞抗内に入ると降車駅がこの駅を降りて通洞抗内を見学します。 | ||||
(通洞抗内) | ||||
通洞抗は1896年(明治29年)に貫通した坑道で小滝抗、本山抗と並ぶ足尾銅山の大坑道で本山大立抗と貫通されています、貫通まで11年の歳月をかけたと云います、見学路は700m程です。 | ||||
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削岩機 | ||||
通洞見学路の出口付近に削岩機が展示されています、足尾銅山ではイギリスのシェラム式削岩機3台を導入して通洞抗を貫通させています、シェラム式削岩機はコンプレッサーを使用する空気圧式の削岩機です、その後更なる掘削の効率をはかりドイツのジーメンス社製の電動削岩機を導入しましたがこれは失敗、空気圧式よりも掘削能力が劣っていました。明治34年にはアメリカのウォーター、ライナー社製のハンマー式の削岩機を採用します、こちらは成功でハンマー(ピック)を回転させながら小刻みに岩盤を叩き割る方式が削岩効率を向上させました。 展示されている削岩機は1914年(大正3年)に開発された国産1号削岩機の改良型です。 |
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足尾銅山馬車鉄道 | ||||
足尾銅山観光(通洞抗)の入口前からわたらせ渓谷鉄道沿いに通洞駅へ向かって馬車道と呼ばれる裏道があります、この馬車道は足尾銅山馬車鉄道の軌道跡です、足尾銅山馬車鉄道は1895年(明治28年)に赤倉から足尾、通洞を経て小滝までの20km間に開通した路線で主に資材の運搬、足尾町民の交通手段として利用されました、線路幅は610mmと路面電車と同じ線路幅でした。 | ||||
足尾銅山馬車鉄道は1925年(大正14年)にガソリン機関車へと車両変更され1953年(昭和28年)にはバスと入れ代わりで廃止されています。 | ||||
(大正14年に採用されたガソリン機関車と客車内) | ||||
ガソリン機関車の営業速度は時速10km~15kmと、のんびりした速度で走行していたそうです。 | ||||
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わたらせ渓谷鉄道 | ||||
(わたらせ渓谷鉄道通洞駅) | ||||
現在の「わたらせ渓谷鉄道」が1911年(明治 44年)に桐生駅から大間々町駅間で足尾鉄道として開業されます(後に国鉄が足尾線として買収)、足尾銅山から産出された銅鉱石の運搬と渡良瀬渓谷周辺住民の旅客を目的として開業されました、資本金の約半分を古河鉱業が出資して初代社長には古河鉱業の幹部である近藤陸三郎が就任しています。1913年(大正2年)には足尾駅が開業、翌年の1914年には足尾本山駅まで貨物支線が延ばされています、この年、現在の「わたらせ渓谷鉄道」の終点駅である間藤駅も開業されました。 | ||||
(原向駅) | (水郡線、常陸大子駅に展示されているC12蒸気機関車) | |||
開業当初、足尾鉄道は発注していた蒸気機関車の完成が遅れ国鉄の払い下げ機関車を使用していました、1934年(昭和9年)には主力機関車となるC12型蒸気機関車が導入されています、C12蒸気機関車は非常に運転コストの安い機関車で主に地方鉄道、貨物車両の牽引などに使用されています。 | ||||
(真岡鉄道下館駅のC12蒸気機関車) | ||||
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宇都野火薬庫 | ||||
(庚申山の碑) | (宇都野火薬庫跡手前の廃屋) | |||
通洞から小滝抗へ行ってみます、小滝抗に行くには「わたらせ渓谷鉄道」原向駅で降りてそこから国道122号線を北東方向へ1km程進み「わたらせ渓谷鉄道」の高架の少し手前で県道293号線へと入りそのまま直進です。 県道293号線へ入ると直ぐに庚申山の碑が立っています、そこから更に1km程進むと県道と平行して流れる庚申川に宇都野橋が架けられています、その手前の右方向へ曲がる林道を進むと宇都野火薬庫跡です、宇都野火薬庫は足尾銅山で使用されるダイナマイトを保管する格納庫でした、現在、国の指定史跡に成っています。 林道を進むと火薬庫と関係が有りそうな廃屋がありその先は「立ち入り禁止」になっていました、その先が宇都野火薬庫跡でしょう、レンガ造りとコンクリ造りの強固な火薬庫であった様です。 |
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(火薬庫イメージ) | ||||
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小滝小学校跡 | ||||
(小滝小学校への登り坂) | (小滝小学校) | |||
県道293号線を旧小滝地区に向かって進みます、宇都野橋から1km程先にまた橋が架けられています、その橋の手前の右方向へ曲がる道に入ると直ぐに登り坂がありその坂の上が小滝小学校の跡地です、小滝小学校は1893年(明治26年)に鉱山の町でる小滝地区に分校として開校され小滝抗最盛期の1916年(大正5年)頃には生徒数も1000人近く居ました、しかし1954年(昭和29年)に小滝抗が廃坑になると小滝地区も人口が急激に減少して1956年(昭和31年)に小滝小学校も廃校となりました。 | ||||
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鉱山都市小滝地区 | ||||
(鉱山夫住宅) | ||||
小滝地区は1885年(明治18年)の小滝抗開抗に伴い鉱山夫の居住区として開かれた町で小滝抗最盛期の1916年(大正5年)には人口も10、000人を越える程でした、1954年(昭和29年)小滝抗の廃坑以後、人口は急激に減少して現在この周辺には人は住んでいません。 丁度「小滝小学校」の南の並びが鉱山夫の住宅地で小滝小学校と鉱山夫住宅地が位地する高台の下にはガソリンカー(前足尾銅山馬車鉄道)の軌道が通されていました、現在の県道293号線は足尾銅山馬車鉄道の軌道跡です。 |
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(小学校、住宅地下手のガソリン機関車軌道) | (管理職者住宅地) | |||
小学校、住宅地の高台からガソリン機関車軌道を挟んだ反対側(庚申川沿い)には管理職者の住宅が並び、その管理職者住宅から庚申川を挟んだ対岸の畑尾にも鉱山夫の住宅地が在りました。 | ||||
(畑尾の鉱山夫住宅地) | (小滝抗事務所) | |||
小滝地区には病院、公共浴場、公営グランド、駐在所、市場、公営プールなどがあり一大鉱山都市の様相でした。 | ||||
(公営グランド) | (鉱山夫様、公共浴場跡) | |||
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小滝製錬所、選鉱所跡 | ||||
小滝鉱山夫居住地区の北側が小滝製練所、選鉱所でした、レンガ造りセメント塗りの建物で小滝抗の開抗に伴い建てれました、この小滝製錬所、選鉱所は製錬所が1897年(明治30年)に廃止、選鉱所が1920年(大正9年)に廃止と比較的早い時期に廃止されています、大凡設備の近代化により製錬所、選鉱所は本山製錬所などに統合されたのでしょう。 | ||||
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小滝抗口 | ||||
(旧小滝橋) | ||||
小滝製練所、選鉱所から更に県道を進むとの1925年(大正15年)に架けられた鉄橋「旧小滝橋」が残っています、この旧小滝橋の先に小滝抗口が開口しています、この抗口は当初の小滝抗の開抗以後、新規に掘削された抗口で電気鉄道が旧小滝橋を渡り直接抗内に乗り入れる為に開けられた抗口です、当初、1885年(明治18年)に開抗された抗口はこの橋の少し先です。 | ||||
(旧小滝橋の先に新規開口された小滝抗口) | (当初、1885年(明治18年)に開抗された小滝抗口) | |||
小滝抗は(明治26年)本山抗と貫通され、その後、立抗(竪穴)により通洞抗と貫通されています、1954年(昭和29年)には足尾銅山経営合理化により廃坑と成りました。 | ||||
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