創建 8世紀中頃 | ||||
相模国分寺は741年(天平13年)に「聖武天皇」の詔により全国に国分寺のが建立され始めた比較的早い時期に創建されました、その寺域は大凡東西240m、南北300m程で回廊内側は大凡東西160m、南北120m程でした、819年(弘仁10年)の火災と878年(元慶2年)の大震災で被害を被り更に律令制の衰退により平安初期には廃寺化していました、その例として相模国分寺近くの9世紀後半頃の住居址から相模国分寺で使用された瓦が再利用されている事が確認されています、此れは大震災以後に持ち去られた物です、鎌倉期に成ると相模国分寺は源頼朝により再建されますが以前の繁栄ぶりは在りませんでした、その後乱戦の時代に戦火に巻き込まれ消失し後に現在の国分寺の位置に再建されました。 | ||||
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中門 | ||||
中門は相模国分寺中心部(回廊内)の南側に位置していました、中門の東西には回廊が延びています、その回廊には3m間隔に礎石が置かれ柱が建っていました。 | ||||
(中門の東西の回廊) | ||||
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回廊内の伽藍配置 | ||||
中門を潜ると正面に講堂が在り右(東側)に金堂(本尊が安置された本堂)が在り左(西側)には「七重の塔」が建っています、此れは奈良の法隆寺と同じ配置でした。 | ||||
(金堂址) | ||||
七重の塔は基壇の高さが1.3mの一辺の長さが約20mでその上に65m程の塔が建っていました。 | ||||
(七重の塔の基壇と礎石) | ||||
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講堂 | ||||
七重の塔と金堂の間を通り抜けると講堂(仏教講義などを行う施設)がありました、これら講堂、七重の塔、金堂の基壇は版築工法で構築されています、また講堂の左右は東門と同様に回廊が延びています。 | ||||
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僧坊 | ||||
講堂の北側裏手は僧坊(僧侶の居住施設)でした、東西で約80m程で8区画に間仕切がなされ20人の僧侶が居住していました、当初は堀立柱式の建物でしたが火災で焼失した後に礎石が置かれています、その僧坊の北東側(斜め裏手)には堀立柱の何らかの施設が建っていました。 | ||||
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回廊東側の土塀 | ||||
回廊の区画の東側は築地塀で区分けされていました(西側は不明?)その築地塀は僧坊の在る区画まで連なりその三方の東、北、西を囲んでいます。 | ||||
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北門 | ||||
僧坊の区画の北側で丁度僧坊の真後は北門と成っていました。 | ||||
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現在の相模国分寺 | ||||
現在の相模国分寺は奈良期の相模国分寺址から南東200m程の高台に位置しています、戦国期に相模国分寺は戦火で消失した後に現在の場所に再建されました、境内には1292年(正応5年)に源季頼により国分寺尼寺に寄進された梵鐘が在ります。 | ||||
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