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 中世寺院、平沢寺  
         
         
   
         
平沢寺CG,写真  
         
 12世紀末、比企郡嵐山町に京都の平等院と同様の浄土庭園を持つ寺院、平沢寺が武蔵国の有力武士畠山氏によって創建されました、その規模は当時東国最大の敷地を持つ寺院と云われ36もの僧坊があり、源頼朝の乳母比企尼の屋敷も寺内に存在していました。  

 
         
 秩父党と平沢寺  
         
   
 (白山神社と発見された経筒)  
         
 江戸期の頃に現在の本堂裏手の白山神社から「久安四年」(西暦1148年)の年号が刻まれた鋳銅製の経筒が見つかっています、更に鏡筒には「平朝臣慈縄」の名が刻まれていました、慈縄とは「秩父重綱」と称して武蔵平氏の主流である秩父党の祖「秩父将常」から数えて4代目の人物です、それにより12世紀中頃には比企郡一帯は秩父党の有する地であり平沢寺は秩父党もしくは秩父党に継続する畠山氏との関係性が考えられます。  

 
         
 鎌倉初期の平沢寺  
         
 秩父党は重綱の子の「秩父重弘」(畠山重弘)の時代に畠山氏、河越氏、江戸氏と称して分流し武蔵国各地を領有します、平沢寺はその重弘の子である「畠山重忠」により造営されたと考えられています、畠山重忠は「治承、寿永の乱」(源平合戦、奥州合戦)で戦功をあげ鎌倉幕府の有力御家人と成りますが源頼朝の死後に北条時政により殺害されます、その後平沢寺は鎌倉幕府の保護を受け蒙古来襲の弘安四年には幕府より国家安泰の祈願を委託される事により数多くの仏像、仏具が平沢寺に納められています。  

 
         
 戦場の歌会  
         
 1488年(長享2年)関東管領山ノ内上杉顕定と扇谷上杉定正が太田道灌殺害を切っ掛けに菅谷原にて激突し山ノ内方の本陣が平沢寺に置かれました、両者対陣の最中、山ノ内方本陣平沢寺に太田道灌の旧友である都の高僧万里が呼ばれ管領上杉顕定、太田資康、三浦道寸、などが参列して歌会が開かれました、時に万里は「敵塁と相対し風雅を講ず、西俗には此の様なし」、敵と対陣しながらも風雅を楽しむなど都ではあり得ない事と延べています、最前線に措いても風土と心を一つにしてゆとりを持つ、当時の東国武士の文化を象徴する出来事でした。  

 
         
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