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薬師信仰は中国の敦煌、朝鮮半島の新羅で信仰されていました、日本国内では680年に天武天皇が大和国に薬師寺を建立します、その後687年~690年にかけて下野国に帰化した新羅人との協力で下野国造である下毛野古麻呂が田川と姿川に挟まれた台地に下野薬師寺を建立しました、その伽藍は建立後に数回に渡り建て返られています、当初建立時の伽藍施設は板葺きの屋根でしたが後に瓦葺きに変えられ更に外周の塀の周りに大溝(堀)が掘られています、薬師寺が建立時期は下野国分寺より半世紀ほど早い7世紀末で後に建てられた下野国分寺、下野国府などの構築に伴い改築がなされたと考えられます。 |
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中門 |
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伽藍中枢部の南側に中門が開かれていました、この中門から東西に回廊が北側の講堂へ渡されています。 |
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中枢部を囲む回廊 |
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中枢部を囲むかたちで回廊が講堂へと渡されていました、回廊の規模は大凡100m四方程です。 |
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これら回廊などの屋根は当初板葺でしたが8世紀前半~中頃の下野国分寺の築造に伴い瓦葺に変えられています、それら屋根瓦は宇都宮市の水道山瓦窯もしくは小山市乙女の乙女不動原瓦窯で焼かれた物で下野国分寺、国分寺尼寺、下野国府の屋根瓦と共に一貫して生産されています。 |
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金堂 |
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回廊に囲まれた中枢部の中央に本堂である金堂が建てれていました。 |
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戒壇 |
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(戒壇址に建てられた安国寺六角堂) |
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金堂の背後には戒壇が配置されていました、戒壇とは僧侶を正式認定する施設で建立された奈良期中頃には全国に戒壇が設立されている寺は奈良東大寺、大宰府の観世音寺と此処下野薬師寺の三寺院みでした、下野薬師寺は全国でも数少ない僧侶の認定が受けられる寺であったのです、その後10世紀~11世紀頃に下野薬師寺が焼失して関東での戒壇制度そのものが衰退し無資格な僧が一般化します、鎌倉期に成ると下野薬師寺は源頼朝の支援で慈猛上人より中興されます、室町期には安国寺と改名され戒壇址に六角堂が建てられて戒壇制度が復活しますが一般的に薬師寺が通名となっていました。 |
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講堂 |
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戒壇の背後は仏教講義、僧侶の修行の場である講堂が建っていました、回廊はこの講堂に通じています、講堂の基壇の大きさは正面約38m、側面約20mあります。 |
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講堂の裏手 |
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講堂の裏側に講堂と同じ規模の建造物が確認されています、何の為の施設であったのかは不明です、更にその裏に僧侶の生活の場である僧坊が建てらていました。 |
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塔址 |
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回廊で囲まれた中枢部の東方外側に塔の址が確認されています。 |
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外周の塀 |
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寺域の外周を囲む塀は奈良期の前半に土塁が設けられ塀はその上に新設されてます、塀までの高さは大凡4m程在ったと云います.。 |
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その後塀の外側に大溝(外周の堀)が新たに掘られました。 |
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南門 |
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中門の正面には寺域への入口である南門が開かれていました、国分寺と同様に南門が通用門と成っています。 |
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