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                               平井城




           


 平井城CG、写真


  築城年代 15世紀以前


 関東管領山ノ内上杉氏の上野国の拠点であった平井城の築城年代は不明ですが1438年(永享10年)関東管領山ノ内上杉憲実は鎌倉公方足利持氏と対立して永享の乱が勃発します、時に管領上杉憲実は上野国平井城に退去したと云います、この時点で平井城は要害としての造りになっていたと考えられます。



                           山ノ内上杉氏時代の平井城

 鎌倉公方足利持氏の滅亡後に結城氏朝は持氏の遺児を奉じて結城城に籠城しました、この時憲実は平井城に居て上野国と北武蔵の一揆衆を掌握したといいます、1454年(享徳3年)持氏の遺児の一人であった鎌倉公方足利成氏は鎌倉で管領山ノ内上杉憲忠を殺害し享徳の乱が起こります、此れにより新たに関東管領に就任した憲忠の弟山ノ内上杉房顕は本拠地平井城周辺の成氏に付く諸氏達を一掃しました、その後房顕の跡を継いだ山ノ内上杉顕定は享徳の乱の最中に平井城の防衛に対して重きをおいて大々的改修工事を行い総構や出城である高山城が構築されています、この様に平井城は管領山ノ内上杉氏の重要拠点であった事がわかります。



                            山ノ内上杉憲政の平井城撤退
 
 1546年(天正15年)関東管領山ノ内上杉憲政は古河公方足利晴氏、扇谷上杉朝定と組んで小田原北条氏の守る川越城の撤回作戦を行いますが北条氏康に夜襲をかけられ大敗して平井城に撤退しました、1551年(天文20年)平井城に籠もる憲政に氏康は総攻撃をかけて平井城を奪い取ります、憲政は一旦箕輪城へ退去してその後に越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃げ込みます、この時憲政は箕輪城に子息「竜若丸」を置き去りにして越後へ逃げたと云います、氏康は平井城に弟の北条氏尭と叔父の幻庵をおいて小田原北条氏の支城としました、その後平井城は1590年(天正18年)の小田原城の落城後に廃城となります。

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