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                             山名城




          


  山名城CG、写真


  築城年代 1395年(応永2年)


 平安末期に新田義重の子義範は上野国多胡郡山名郷を所領として与えられ山名義範と名乗ります、この義範が応仁の乱の首謀者山名宗全の子孫で山名氏の祖となります、一説に山名城は義範の居館が在った所として義範が山名城の築城者と云われていますが確証が無く一応南北朝期にこの辺りを領有していた木部氏を築城者にあてています、ただし山名氏が八代に渡りこの地を領有していた事は事実で山名城との関連性は大いにあると言えます、更にこの城山の東側の麓には義範が建立した山名八幡宮があり自らの館近くに一族の守護神をおいたとも考えられます。



                                 根古屋城の支城

 1568年(永禄11年)甲斐の武田信玄は今川領の駿河国に侵入します、此れに対して相模国の北条氏康は今川家とは連携をとる仲であった為に以前より結ばれていた北条氏と武田家の同盟関係を破棄して今川家を支援します、敵対関係となった北条氏と武田家の国境線である上野国と武蔵国の国境は緊迫した状況となりました、武田信玄は山名城から北西2kmの山頂に根古屋城を築城して物見と狼煙による連絡の拠点とし山名城をその根古屋城の支城に組み込みます、この時に城主木部氏は武田家の配下となっています。



                                  北条家の持城

 1582年(天正10年)に甲斐武田氏が織田信長の軍に滅ぼされると上野国は織田家の重臣「滝川一益」が統治します、此処で木部氏は一益に従い山名城は一益の城となります、しかし一益の上野国の統治は長くは続かず同年織田信長は本能寺で明智光秀に打たれ一益は後ろ盾失いました、そこへ北条氏政が武蔵国と上野国の国境に軍を進め一益と神流川で激戦を行った末に一益を撃破しました、この時も木部氏は優勢である北条氏に服従しています、二つの大きな勢力の狭間に位置する中小武士達の苦情を伺う事ができます、その後1590年(天正18年)小田原北条氏が滅亡すると山名城は廃城となりました。 

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