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                               逆井城




             


逆井城写真



 築城年代 (享徳年間)1452年~1454年
または1577年(天正15年)


 一説に逆井城は1455年(享徳3年)の鎌倉公方足利成氏と関東管領山ノ内上杉氏の功争である「享徳の乱」前後に小山氏の一族である逆井氏により築城されたと云われています、享徳の乱の勃発後にいち早く鎌倉公方に属した逆井氏は猿島に逆井城を築城して防戦態勢を整えたのです、その後1536年(天文5年)に逆井氏は小田原北条氏と対立して北条方の大道寺盛昌の攻撃を受けて逆井城は落城し逆井氏は滅亡しています、しかし天文5年におて猿島郡への小田原北条氏の侵攻はまだ実行されていない事からこの史実は定説に至っていません。



                            小田原北条氏と逆井城

 小田原北条氏が常陸国進出を本格化させると北条氏政は栗橋城、関宿城などの下総北部の城を北条氏照(北条氏政の弟)に守らせます、更に1574年(天正2年)には小田原北条氏は飯沼まで侵攻して弓田城を築城し1577年(天正5年)には結城城の前線の要塞として逆井城を築城しました、現在この1577年の築城説が定説とされています、逆井城は当初飯沼城と呼ばれ城主には玉縄城の城主などを務めた北条氏繁が任命されています。



                               逆井城の特徴

 築城の翌年である1578年(天正6年)に北条氏繁が死去するとその子北条氏舜が城主となります。この逆井城少し他の城とは変わった特徴があります、それは「関八州古戦録」によれば風魔党の忍者集団300人に逆井城を守らせた事になっています、時に風魔小太郎の子である風魔孫右衛門が忍者宗の指揮をとったと云います、また城内からは鉄砲の弾丸や玉薬(火薬)製造の臼など大量に発見されこの事から逆井城は近世の銃撃戦を主体に忍者によるゲリラ戦術を用いる独特な防衛策を取っていたと考えられます、最も風魔党の本姓は風間(かざま)氏であり北条氏家中で情報収集などを行う任務に着いていたので侵攻したばかりの常陸国内で前線要害の逆井城に風間氏を配置して情報集めをしながら交戦していたとも考えられます。
 その後1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐以後逆井城は廃城となりました。

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