関東、温泉と旅行記 |
霞ヶ浦、土浦、古河方面 | |||
築城年代 永享年間(1429年~1441年) | ||||
霞ヶ浦の西岸に位置する土浦城は伝承によると平将門により築城されたと云われています、しかしその裏づけは無く実際に文献上に登場するのは永享年間の(1429年~1441年)頃に鎌倉初期常陸国の守護職であった八田知家を祖とする若宮(今泉)三郎により築城されたと云います、その後同属である小田氏の臣菅谷勝定に城を奪い取られた後に菅谷氏が三代居住しています。 | ||||
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小田氏の本拠地へ | ||||
16世紀後半に成ると小田氏は佐竹氏との功争が激化し本城である小田城の攻防戦が展開されます、1569年(永禄12年)小田氏冶は佐竹氏の配下の真壁氏と手這坂の戦で鉄砲にる総攻撃を受けて大敗します、氏冶は小田城へ退却しますが真壁氏に先回りされ小田城を略奪されました、そこで氏冶は土浦城へ退去して以後土浦城を本拠としています、その後土浦城は佐竹氏の攻撃を再三に渡り受ける事に成り1583年(天正11年)氏冶は佐竹氏に終に降伏してその軍門に降りました。 | ||||
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江戸期の土浦城 | ||||
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐で土浦城の菅谷範政は小田原北条氏に属し豊臣方に付いた佐竹氏らに攻められ小田氏と共に滅亡します、しかし範政おいては小田氏への忠節を浅野長政に賞賛され戦後に筑波郡手子生に5000石を賜っています、徳川家康は小田原北条氏の滅亡以後土浦城を下総結城城の城主である結城秀康の管理下におき小田氏はその家臣と成りました、関ヶ原の合戦以後に結城秀康が越前北庄に移ると代わって松平信一が3万5000石で入城し関ヶ原の合戦で中途半端な立場を取った佐竹義宣の監視をしていました、その後土浦城は「西尾氏」、「朽木氏」、「土屋氏」、「松平信興」、「土屋氏」と城主が代わりこの間に幾度も改築が行われます、松平信興の時代に甲斐武田氏の軍師山本勘助を祖とする菅助晴方が奉公しています、この時土浦城は大改築がなされ甲斐武田氏の築城技術が施されました、 幕末の大政奉還後の廃藩置県で土浦城は廃城と成り本郭以外の堀は埋められ建物は取り壊されました。 |
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