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 小田原城  
         
         
   
         
 小田原城CG、写真1 小田原城CG、写真2  
         
 築城年代 1417年(応永24年)  
         
 小田原城は1416年(応永23年)「上杉禅宗の乱」以後に伊豆国、西相模で勢力を伸ばした大森氏により築城されたと云われています、それ以前に当地の土豪である土肥氏の居館が此処に存在していたとありますが確証については分かりません、その後「伊勢盛時」(北条早雲)の知略により小田原城を奪い取られた大森氏は衰退し西相模は盛時の勢力下となります。  

 
         
 永禄4年の小田原城包囲  
         
 小田原北条氏は二代目北条氏綱の頃に北条姓を名乗り小田原城を正式に本拠地としています、この小田原城は1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐に至るまでこれと合わせて3度に渡り包囲戦を受けています、最初の小田原城包囲戦は1560年(永禄3年)の長尾景虎(上杉謙信)による関東侵攻にはじまります、1545年(天文15年)の河越夜戦で北条氏康に大敗した関東管領「山ノ内上杉憲政」は越後に落ちて景虎に保護されます、更に1559年(永禄2年)に景虎は上洛し将軍足利義輝より「信濃意見書」と「関東進退書」受け事実上関東管領に推薦されました、永禄3年景虎は越後を出発し上野国厩橋城(前橋城)に入り小田原北条家討伐の決起を関東の諸氏に促します、此れにより佐竹、里見、太田、佐野など合計255諸氏が景虎に賛同しました、景虎自らは翌年の永禄4年に総勢11万に及ぶ大軍をもって滝山城、川越城に攻撃をかけながら相模国に入り小田原城を包囲します、一ヶ月に及ぶ籠城戦が続きましたが小田原城はおろか出城すら落とせず鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領の就任式のみ行い越後へ帰りました。
 景虎による小田原包囲戦以後関東での小田原北条氏と上杉謙信(長尾景虎)の抗争は続きますが1568年(永禄12年)に両者は和議を結んでいます、この抗争で両者の大きな相違点は北条氏康は検地などを行い財政を固め民意を一つにまとめていました、また戦術においても鉄砲、らっぱ(忍者)、伝馬制などを取り入れた新しい軍事態勢に対して謙信は従来の古典的軍事態勢で対抗していました、その差が合戦時に歴然と出ていた戦でもありました。
 
   
 (前橋城と鶴岡八幡宮)  

 
         
 永禄12年の武田信玄による小田原城包囲  
         
 1568年(永禄11年)武田信玄は三河の徳川家康と内通して駿河に侵攻し今川氏真に攻撃をかけます、北条氏康は今川家救援の軍を送り武田軍と興津河原で戦います、此れにより1554年(天文23年)に結ばれた武田氏と小田原北条氏の同盟関係は破棄されました、翌年の永禄12年に信玄は突然小田原北条氏の領する秩父に乱入し鉢形城に攻撃をかけます、更に北条氏照の守る滝山城へも攻撃をかけ落城させる事なくダメージを与えるのみでそのまま小田原城を包囲し城下に火をかけて氏康を挑発します、しかし氏康は挑発に乗らず籠城策をとりました、氏康が策に乗らなかった事で信玄は長期戦の浪費を考えて甲府へと撤退しました、氏康の子北条氏政これを追撃し三増峠で武田軍と交戦しますが逆に大打撃を被って退却を余儀なくされてしまいます。  
   
 (鉢形城  

 
         
 天正18年小田原征伐  
         
 豊臣秀吉の天下統一が進むと関東にもその勢力が徐々に及ぶ様になってきいました、それにより北条氏政の弟北条氏規が秀吉のもとへ上洛し豊臣傘下に入る事に対しての条件につて話合いが行われます、その条件の一つに上野国沼田領の利根川を挟んだ西側の名胡桃城を真田領として東側沼田城を北条家が有すると言う内容のものがありました、双方この条件を納得したのですが北条方の沼田城主「猪俣邦憲」は名胡桃城を目ざわりに思いいきなり総攻撃をかけて真田方の名胡桃城を占拠してしまいます、これは完全な条約違反で秀吉は激怒し氏政に上洛を命じますが氏政はこれを無視してしまいます、当初秀吉のもとへの上洛を進めたのは氏政の子北条氏直で当主である氏政と弟の北条氏照は秀吉との交戦を望んでいたのでした、秀吉は北条攻めを決意し全国に総無事令を発令します、1590年(天正18年)徳川家康を先鋒とした17万の軍勢に1万4000もの水軍が沼津に集結しそこへ秀吉の本隊3万2000の軍が到着しました、またそれとは別に前田利家、上杉景勝、真田昌幸の軍が信濃方面から関東に侵入して北条方の支城の攻略を開始します、秀吉はまず北条方の前線要塞である箱根山中城を落城させ小田原城を眼下に見る石垣山の山頂に一夜城を築いて本陣とし長期戦の構えを整えます、その石垣山から小田原城を挟んだ反対側に徳川軍が陣取りそこから小田原城の北面から南面に向かって織田信雄、蒲生氏郷、羽柴秀勝、羽柴秀次、宇喜田秀家、織田信包、細川忠興、池田輝政、堀秀政、木村一の軍が陣を置き海上には長宗我部、九鬼らの水軍が船団を停泊させます、それに対する北条軍は小田原城下の外周から小田原海岸に至るまで外構を構築し5万の兵を籠城させ臨戦体制をとりました。
 3ヶ月に渡り籠城戦は続きますが小田原城の攻撃はなかなか進みませんでした、その間に前田、上杉、真田の軍は上野国松井田城、武蔵国鉢形城、松山城と有力支城を次々と落城させ終には難攻不落とされた八王子城を落とします、八王子城が落城した事で氏直は落胆し秀吉の前に出向いて自らの命と引きかえに家臣の助命を願います、しかし秀吉は氏政は隠居して子である氏直が家督を継いでいるとは言え事実上の北条家の権限は氏政が握っている事と氏政が交戦を進め氏直が和解を求めていた事、更に氏直が徳川家康の娘婿である事から氏直を助命して氏政、氏照に切腹命じました、此れにより小田原城は開城され早雲より5代継続した小田原北条氏は終焉となります。
 
   
 (石垣山一夜城、小田原城外構前の徳川家康の陣営)  

 
         
 小田原城落城後の北条氏  
         
 小田原城の落城後の北条氏直、氏規、氏房(氏直の弟)は紀伊国高野山へ追放となります、しかし1591年(天正19年)直氏は秀吉から大阪へ呼び出され近江国、上野国に合わせて1万石の所領を与えられ大名に復帰します、更に秀吉は伯耆国一国を与える事を直氏に約束しました、秀吉は直氏が家臣達の助命を願い一人で責任を負って切腹を願い出た事を高く評価していたのです、直氏は同年病により死去します、旧家臣達にその旨を伝えて呼び戻しをかけている最中であったと言います、その後小田原北条氏は最終的に氏規の子氏盛が河内に1万1000石を与えられ大名として幕末まで存続しています。  

 
         
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