築城年代 1560年(永禄3年)
松代城は当初「海津城」と呼ばれ1553年(天文22年)に武田信玄が在地領主の清野氏の館を召し上げ山本勘助に築城させてと云われています、築城開始から7年が経過した1560年(永禄3年)に海津城は略完成、当時は第4回川中島の合戦の直前で海津城は武田方の最前線に位置していました、第4回川中島の合戦の時に上杉謙信の侵攻が始まると城主「高坂昌信」は海津城に籠城して信玄の本隊の到着を待ったと云われています。
第4回川中島の合戦
1561年(永禄4年)長尾景虎(後の上杉謙信)は関東諸氏の兵を合わせた大軍で小田原城を包囲します、その為北条氏康は同盟関係であった武田信玄に救援を要請し信玄はそれい応じて海津城より景虎に牽制をかけます、此れにより関東侵攻のクサビと成る海津城に謙信は攻撃を開始して第4回川中島の合戦が開始されました。
謙信は善光寺に布陣して5000の兵を残して1万3000の兵で川中島に出陣し川中島南の妻女山に本陣を配置します、一方信玄は謙信より少し遅れて茶臼山に着陣して海津城に入り謙信と睨み合いになります、武田方は山本勘助、馬場信昌の発案により妻女山に別働隊1万2000の兵を送り謙信の本隊を妻女山から追い立て八幡原に予め配置した本隊兵8000と挟み撃ちにする「啄木鳥の戦法」を開始します、しかし謙信はこの作戦を事前に察知し妻女山より朝霧にまみれ八幡原の信玄の本陣前に移動し1561年10月28日午前8時霧が晴れると同時に信玄の本陣に「車懸の陣形」で総攻撃をかけました、此処に居るはずの無い謙信の攻撃により武田方は大慌てで態勢を整え反撃に転じます、午前12時頃ようやく別働隊が妻女山より折り返しで八幡原に着陣し謙信は善光寺へと退陣しました、この八幡原の戦で武田方は信玄の弟の武田信繫、山本勘助を始め4000の兵を失い上杉方は3000の兵を失ったと云われています。
(八幡原の戦)「画面クイックで拡大」
(武田方八幡原本陣土塁、武田の本陣に切込んだ謙信と信玄の一騎打)
武田氏滅亡後の海津城
1582年(天正10年)甲斐武田氏が滅亡すると海津城は織田信長の家臣森長可が城主となりましたが信長が本能寺で討ち死にすると長可は信濃を退去し代わって上杉景勝の持城と成り景勝が会津へ転封後に豊臣秀吉の家臣田丸直昌が入城しました、江戸期に入ると海津城は森氏、松平氏、酒井氏と城主が代わり最終的に1622年(元和8年)真田信之が13万石で入城し1711年(正徳元年)には海津城から松代城に改名され幕末に至ります。
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