関東、温泉と旅行記  諏訪湖、八ヶ岳方面      
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 高島城  
         
         
   
         
高島城CG、写真  
         
築城年代 1592年(文禄元年)  
         
 中世上諏訪には諏訪氏の居城である茶臼山城があり1590年(天正18年)に当主「諏訪頼忠」が武蔵国比企郡奈良梨に移ると代わって日野高吉が3万8000石で信濃高島を領有しました、高吉は安土城、大阪城の築城に携わった経験があり高島城はそれらの築城技術を要所々に取り込まれた造りになっています。  

 
         
 諏訪氏の上諏訪退去から高島城の築城まで  
         
 信濃国諏訪郡は平安期より諏訪大社の大祝を務めてきた諏訪氏の領有する地でした、1541年(天文10年)武田晴信(武田信玄)は父武田信虎を追放した後に信濃への侵攻を本格化させます、それにより晴信は諏訪氏の上原城、桑原城を落城させ諏訪氏当主の諏訪頼重を自害に追いやり諏訪総家を滅亡させました、その後頼重の叔父にあたる諏訪満隣が信玄に降伏して武田家に使え一族を存続しています、1582年(天正10年)織田信長の信濃、甲斐侵攻で武田家が滅亡すると当主「諏訪頼豊」は討ち死にして諏訪氏は一旦衰退しかけますが頼豊の弟「諏訪頼忠」は本能寺の変で織田信長が討ち死にすると家臣の支持を受けて旧領を奪回しました、しかし信長の死に乗じて今度は小田原北条氏、徳川家康が信濃国、甲斐国に侵攻(天正壬午の乱)します、頼忠は小田原北条氏に付いて徳川軍と対陣しますが敗退し乱終了後に徳川家康と和解しました、1590年(天正18年)小田原北条氏が滅亡すると徳川家康は関東に転封となり頼忠も家康に従い武蔵国比企郡奈良梨へ移ります、諏訪氏に代わり日野高吉が諏訪郡高島を領有すると高吉は諏訪湖の南岸に高島城の築城を開始します、しかし朝鮮出兵などで戦費が加算して工事は延々になり完成したのは着工より7年が経過した1598年(慶長3年)でした。  

 
         
 諏訪氏の復帰  
         
 1600年(慶長5年)諏訪頼忠の子「諏訪頼水」は関ヶ原の合戦で徳川方の従い上野国、信濃国の守備につきその功により2万7000石で信濃国諏訪藩に復帰します、当時高島城の建設の為に諏訪藩では「7公3民」の重税が課せられていたので領民は逃散す者が相次いでいました、頼水はそれら領民を呼び戻して開拓事業を進めるなど藩内の安定を計ります、その後諏訪氏は幕末まで諏訪藩の藩主を務め高島城は1871年(明治4年)の「廃藩置県」後に高島県の県庁舎となりました。  

 
         
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