築城年代 1456年(康正2年)
深谷城は深谷上杉氏の居城であります、築城年代は明確ではないのですが享徳の乱勃発後の1456年(康正元年)と言われ、庁鼻和城主上杉房憲によって築かれたとされています、同時期に古河公方足利成氏方に対抗すべく太田道真、資長(太田道灌)父子により江戸城、川越城、岩槻城が築城され、深谷城もその対抗策の一環として築かれたのです。
深谷上杉氏
深谷上杉氏とは観応の擾乱の時に足利直義と組、足利尊氏に対抗した上杉憲顕の6男、庁鼻和上杉憲英を祖として数えて4代目房憲が深谷城を築城、居住して深谷上杉氏を名乗ったと言われています。
深谷上杉氏は享徳の乱、長尾景春の乱で関東管領山ノ内上杉氏の諸家として扇谷上杉氏と共に古河公方軍と戦い、その後、武蔵国に小田原北条氏の勢力が及んでくると北条氏と対抗する事に成っていったのです。
深谷上杉氏の奮闘
房憲の孫、憲賢の頃に1546年(天文15年)の川越城撤回作戦で管領上杉憲政、扇谷上杉、古河公方の連合軍が北条氏康に大敗し扇谷上杉朝定が討ち死、扇谷上杉氏は滅亡するのです。長きにわたり深谷上杉氏と武蔵国の覇権を分かち合い北条氏に対抗してきた強力な同袍を失った憲賢ですが北条氏には屈せず、後の憲政の居城、平井城を氏康が攻撃した時に太田三楽斎資正と共に深谷、館林で北条軍と交戦し、1561年(永禄4年)の長尾景虎(上杉謙信)が関東へ侵攻した際にも景虎に付き北条氏に対抗しています。しかし第二次国府台合戦で里見、太田の連合軍が北条氏康に敗退し武蔵国で反北条の勢力が弱体化すると深谷上杉氏は武蔵国内で孤立してしまい、頼みの上杉謙信も武田氏との合戦に明け暮れ支援を求められなく成ってしまいました。
崩壊の道へ
1573年(天正元年)憲賢のあとを継いだ憲盛は子、氏憲を北条氏政の娘と婚姻させ事実上、北条氏に降伏します、その事で不満に思った謙信は深谷城に攻撃をかけますが憲盛はなんとか状況を乗りきり二度と謙信に付く事はなかったのです、それは既に述べた様に武蔵国を中心とする関東南部では北条氏が勢力を確立して上杉謙信が進出する余地などこの頃には無くなっていたからでした。
1590年(天正18年)小田原の役で氏憲は小田原城に入り、重臣秋元長朝が深谷城の留守を守っていました。上杉景勝、前田利家の西国軍に包囲されると秋元は城を開城して降伏し、深谷上杉氏は終演を迎えます。
数奇な運命
小田原落城後、深谷上杉氏は豊臣秀吉に領地を没収され氏憲、憲俊の親子は信濃国に移住し姓を小久保と改名します、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い直前に上杉景勝から仕官の誘いがあったのですがそれを如何なる理由か断り、1617年(元和3年)播磨の国平福藩主、池田輝興に使えます、主君輝興はその後に領地加増で赤穂藩主と成り領政に尽くしていたのですが1645年(正保2年)突然発狂して正室、侍女を数人斬り殺すという凄惨な事件を起こし藩主を改易され甥の岡山城主、池田光政に預けられます、憲俊もそれに従い岡山へ随行し3年後の1648年(慶安元年)に死去します、輝興が狂乱死した1年後の事です。
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