築城年代 15世紀中頃 | ||||
石戸城は長禄年間の1457年~1460年頃に扇谷上杉氏の家臣太田資長(太田道灌)により築城され同じく扇谷上杉氏の家臣である藤田八右衛門が居城したと伝えられています、丁度同じ頃に江戸城、岩槻城、川越城が完成し享徳の乱に措いて管領上杉方が古河公方足利成氏に対する反撃の準備が整いつつある時期で石戸城は岩槻城と川越城、松山城のつなぎの城として築城されたのです。 | ||||
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岩槻太田氏の支城 | ||||
享徳の乱の後石戸城は岩槻太田氏の支城と成っていました、16世紀前半小田原北条氏の武蔵進出に対して石戸城は岩槻城の西の守りで1525年(大永5年)北条氏綱に岩槻城を攻められた太田資頼(太田道灌の孫、太田三楽斎資正の父)は石戸城に退去したとされています。 1561年(永禄4年)長尾景虎(上杉謙信)が関東をへ侵攻し鎌倉鶴岡八幡にて関東管領に就任すると関東一円で反北条の気運が一気に高まります、太田三楽斎資正もその一人で江戸城、松山城、葛西城を攻略し上杉軍へ従属しました。 |
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(永禄五年)石戸城の戦い | ||||
謙信の関東侵攻の後に北条氏と上杉氏、太田氏で松山城の攻防戦が展開されています、1562年(永禄五年)鉢形城主北条氏邦は鉢形、秩父勢を率いて松山城の南東約8kmに在る石戸城を攻めます、当時石戸城は上杉謙信の家臣毛利丹後守が城主に据えられていました、着陣した氏邦は石戸城の東の沼地を挟んだ台地に本陣を張り激しい攻撃を幾度も繰り返し双方多数の犠牲者を出しますが落城には至りませんでした。 | ||||
(北条氏邦が本陣を置いた沼地の対岸の台地) | ||||
北条軍が攻めあぐんでいると上杉謙信が救援に向かっているとの報告が入り一刻も早く石戸城の攻略が迫られました、そこで氏邦は夜間沼地に土を盛り土橋を渡して一気に攻め込み石戸城を落城させたのです。 現在この合戦で北条軍により築かれた土橋を一夜にして築かれた事から「一夜堤」と呼んでいます。 |
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(北条軍の築いた一夜堤) | ||||
一夜堤は長さ大凡45m、幅5m程で北条軍が本陣を配置した台地から城東の帯郭に向かって伸びています。 | ||||
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