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                           騎西城



                  

                             (騎西城土塁址)


 騎西城CG、写真


  築城年代 1455年(康氏元年)以前


 鎌倉大草紙に1455年(康正元年)足利成氏は武田右馬助、里見、簗田、一色宮内大輔、鳥山らに300余騎を付け埼西城(騎西城)を攻めた、同年12月3日上杉、庁鼻和、長尾左衛門、武州七党が討って出て防戦したが敗れて退いた、とあり騎西城はこの時、既に存在していた事になり前年の1454(享徳3年)享徳の乱勃発の後に関東管領上杉房顕、長尾仲景が築城したと言われてます。
 更に鎌倉大草紙には同6日に成氏方が手痛く攻めたので落城し上杉方数百人討死したと記され、この後、享徳の乱に措いて成氏方の城と成るのです。



                     上杉謙信、騎西城攻略

 
 1563年(永禄6年)関東での上杉謙信と北条氏康の抗争が激化する中、上杉方太田資正(三楽斎)、上杉憲勝の守る武州松山城を北条氏康、武田信玄が落城させます、時に上杉謙信は松山城救援の為に石戸(埼玉県北本市)まで来ていました。謙信は資正より松山城が落城した事を聞くと非常に残念がり資正に「この近くに敵方の城は無いか?」と尋ね、資正は「小田助三郎伊賀守の居る騎西城が近くに在ります、助三郎は成田長泰の弟であり騎西城は現在、成田の城と成っております、」と答えた、成田長泰は1561年(永禄4年)謙信の鶴岡八幡宮参拝の時に謙信と一悶著有り謙信を見限り北条方へ付いたので謙信は長泰のその行為に激怒していました、謙信は「成田の弟ならば一言あいさつせねばならん」と軍勢を騎西城に差し向け、ついでに松山城を落とした氏康、信玄に使者を送り「松山城救援の為に出撃したがそれがしが遅れ戦場に着く前に落城した事を両将に対して申し訳無く思う、そこで此れより騎西城を攻略するが無益な行為と思われるのなら両軍勢をもって妨害されよ」と伝え8000余騎の軍勢で騎西城を包囲し総攻撃をかけました、騎西城を守る小田助三郎は上杉方の大軍を前に「今は此れまで時の関東管領謙信を向こうに回して討死するのは名誉」と猛然と戦い一族皆討死しました、これ以後から北条氏康、上杉謙信の和解が成立する1569年(永禄12年)までの間、騎西城は上杉方の城と成ったのです。


                       騎西城、廃城へ
 
 永禄12年の北条、上杉との和解の後に騎西城は又、成田氏の持ち城と成りますが1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの時に行田忍城の出城として西国勢に包囲落城させられます、徳川家康が関東に入府した後は松平康重が騎西藩2万石の大名として騎西城に入りましたが1632年(寛永9年)に騎西藩が廃藩と成り騎西城も廃城されました。

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