大蔵館は南北が200m程、東西は170m程の方形状の中世初期頃の典型的な領主の館です、その規模は同時代の他の領主の館と比較して格段大きく築城者である源義賢(帯刀先生)の豊かさを知る事ができます。
館東側
(西側の土塁)
大蔵館の東側には大手口が設けられています、大手口を出ると鎌倉街道筋に通じて大蔵宿になっていました、この大手口は館の外に向けて多少屈曲しているのが特徴です。
大蔵宿
(大蔵宿)
大手口は鎌倉街道上道筋の宿場である大蔵宿に面していました。
館南側の土塁
大蔵館の南側の土塁は大蔵神社の参道口が開いていますが此処は小口では無く後年の大蔵神社建立の際に削り取られたもので南側の土塁は繋がっていました。
(大蔵神社参道口脇の櫓台)
大蔵神社の参道口脇(大蔵館南西角)は土塁が高く広く成っています、大凡此処には櫓が建てられていたと考えられます。
御所ヶ谷戸
(土塁内側に建立された大蔵神社)
現在大蔵神社の境内となっている大蔵館の土塁の内側は御所ヶ谷戸と呼ばれ領主の館、厩、井戸などが存在していました、また土塁の内側の一角に土盛が在り「高見蔵」と呼ばる櫓台址が残っています。
(櫓台址である高御蔵)
向徳寺
大蔵館の東側には鎌倉の遊行寺の末寺向徳寺が在ります、向徳寺は鎌倉期に創建され寺内には鎌倉期から室町期にかけての板碑が38基存在しています。
(向徳寺の板碑)
行司免遺跡
(都幾川の舟つき場)
大蔵館の北側には堀と溝によって区画された現在「行司免遺跡」と呼ばれる集落址があります、鎌倉期から室町期に存在した商業集落です、当時水路であった都幾川と鎌倉街道筋の交差する大蔵宿は比企郡の物流交易の拠点で荒川から都幾川経由で運ばれた品々と鎌倉街道筋から運ばれた品々が一旦この集落に持ち込まれ比企方面に捌かれていました、この行司遺跡からは大量の渡来銭や青磁器などが発見されています。
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