築城年代 1462年~(貞治年中)頃
蕨一帯は1352年(観応3年)頃、室町幕府足利将軍家の一族で武蔵国司渋川義行の所領と成り後にその一族が館を構えて知行してました。
享徳の乱
鎌倉公方足利成氏は関東管領山ノ内上杉氏と関東の覇権をめぐって戦いを挑みます、所謂享徳の大乱で関東を二分する大乱となりました、当初古河公方足利成氏は鎌倉御所を拠点としていましたが1455年(享徳4年)今川範忠が東海道の軍勢を引き連れて鎌倉を占拠した為に成氏は下総古河に後退して古河公方を名乗りそこを後々の拠点とします。
管領方の防衛態勢
享徳の乱勃発後、武蔵国足立郡付近は成氏の家臣簗田河内守が関宿城から攻撃をかけてその大半を押領する次第でした、そこで管領山ノ内家の親族扇谷上杉氏の家臣太田道真とその子息資長(道灌)は成氏方の古河城。関宿城、騎西城、忍城と対陣すべく管領方の五十子城を起点として中山道沿いに深谷城、岩槻城、江戸城を築城します、これは古河方の勢力圏と横一線で防衛ラインを引き当時上野国と武蔵国を結び西国へと繋がる中山道を確保する意味がありました、更に太田資長は川越城を築城して総合司令部とします。
渋川義鏡武蔵国へ下向
管領方は防衛態勢を固めました、一方京都の公方足利義政は大乱鎮圧の総大将として渋川義鏡に武蔵国下向を命じます、なぜ義鏡が総大将に選ばれたのかは祖父渋川義行は武蔵国司を勤め足立郡の蕨一帯を知行地としていた為です、また義鏡は九州探題であったのでその任に適していると判断されたからです、義鏡にしても知行地の蕨を簗田河内守に押領されていた為にその奪回を願って武蔵国への下向を受け入れました、義鏡は武蔵国へ下向すると蕨城を改築しそこを居として公方方と対陣します、これで一応管領方の防戦態勢が整いそれ以後管領軍の反撃が開始されるのでした。
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