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                           大多喜城



            


           
 大多喜城写真 大多喜城下


  築城年代 1521年(大永元年)


 大多喜城は当初「小田喜城」と称して上総武田氏により築城され近世大多喜城の北側にその縄張が設けられていました、1590年(天正18年)徳川家の重臣「本多忠勝」の入城により大々的改築が行われ近世城郭となったのです。



                              上総武田氏の成立

 上総武田氏は甲斐守護職でした、甲斐武田氏とは親類関係です、1416年(応永23年)関東管領「犬懸上杉氏憲」が鎌倉公方「足利持氏」に反乱(上杉禅宗の乱)を企てます、甲斐守護職「武田信満」は上杉氏憲に荷担しますが氏憲が敗退するとそれに伴い自害しました、信満の子「武田信長」は領国である甲斐国に戻りますが甲斐国の有力領主であった逸見氏が既に勢力を拡大して信長に対抗しましす、更に鎌倉府の反乱後の追討受けるなど甲斐国での勢力基盤が崩されてしまいました、その後一旦は室町幕府将軍「足利義教」の保護を受けて相模守護に任命されたのですがそれも義教の暗殺後に奪われてしまい犬懸上杉氏の旧領であった上総真里谷に移転して真里谷城築城し以後そこを本拠とします。



                               小田喜城の築城

 上総真里谷に移転した上総武田氏は上総国内の主だった要所に要害を築き上総一国を手中におさめます、大多喜城の前身である小田喜城もこれに伴い築城されました。
 この上総武田氏の上総統一は在地領主である正木氏との抗争を伴いました、1544年(天文13年)の苅谷ヶ原の合戦では上総武田氏は正木氏に大敗して小田喜城を奪われていしまい正木時茂が入城し以後小田喜城は正木氏の持城となります。



                              小田喜城正木氏の衰退

 小田喜城を制圧した正木時茂の弟「正木時忠」は勝浦城に移り勝浦正木氏の祖となり両正木氏共に里見氏と同盟関係を結び房総での基盤を固めます、しかし正木氏が時茂の甥で養子の憲時の代になると里見義頼に反乱を起こして小田喜城の正木氏は滅ぼされました、里見義頼は次男「別当丸」に正木姓をつがせて初代正木時茂と同名の時茂と名乗らせます、これは正木氏のこの地域での影響力が強く小田原北条氏との対立の最前線である小田喜城周辺の小領主達をまとめて強固な防衛態勢を築くためでした。



                                   大多喜城

 1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐に措いて里見氏は豊臣方に付いたのですが秀吉の意向にそぐわない動向を行い上総国を没収されます、此れにより小田喜城は徳川家の重臣「本多忠勝」が10万石で入り大多喜城と改名され城下と共に大々的な改築がなされ近世の城郭へと変えられます、それ以後江戸期の大多喜城は「阿部氏」、「青山氏」、「稲垣氏」、「大河内氏」と城主が変わり幕末の鳥羽、伏見の戦いの後に官軍に明け渡され廃城となります。

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