関東、温泉と旅行記 | 館山、鴨川、勝浦方面 | |||
築城年代 1580年(天正8年) | ||||
館山城が文献に始めて登場するのが天正10年前後に出された里見義頼の書状が最初です、当時里見氏の本拠地は安房郡富浦町の岡本城であり館山城はその支城で水軍基地となっていました、館山城が本拠地となったのは1591年(天正19年)以後で豊臣秀吉が小田原北条氏を滅亡させ関東を平定させた後の事です。 | ||||
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里見氏の小田原征伐参戦 | ||||
1590年(天正18年)に豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると里見義頼の子里見家9代「里見義康」に小田原への参陣が促されました、しかし義康はこれを好機とかねてからの念願であった三浦半島制圧を開始します、海を渡り三浦に上陸した里見軍はそのまま鎌倉を占領しました、古河公方を後押して関東の覇権を握ろうと考えたのです、秀吉はこの義康の動向に激怒して下総、上総の里見氏の所領を取り上げて安房国9万石と定めました、当初秀吉は全ての所領を割譲しようとしたのですが徳川家康のとりなしにより安房一国のみ残されたと云います。 | ||||
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館山城への本拠地移転 | ||||
下総、上総の所領を没収された里見氏は一気に財政難に転落します、そこで義康は本拠地を岡本城から館山城へ移転を計画しました、里見氏は久留里、岡本城と海上からの直接的攻撃を避けるために比較的内陸に本拠地をおいていました、しかし関東の戦乱が平定した事と交易の活性化による里見氏の財政改革の為に直接海上に面した館山城を本拠地と定めたのです、館山城の城下は整備され特定商人に特権を与えて商業の発展を大いに助勢しました、また関ヶ原の合戦の功により常陸国鹿島に3万石が加増されなんとか里見氏は財政困難をのりきったのです。 | ||||
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館山城の廃城 | ||||
財政難をのり越えた里見氏ですが更なる困難が沸き起こってきます、義康の子里見家10代「里見忠義」は徳川幕府の老中「大久保忠隣」の孫娘を正室としていました、その為老中大久保家と里見氏は近親の関係でした、1614年(慶長14年)大久保忠隣の失脚事件により里見氏もその同類と見なされ安房国の領地は没収となり山陰道伯耆国の倉吉藩3万石に転封が命じられました、これにより館山藩は取り潰され館山城は廃城となったのです。 | ||||
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