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 足利氏館  
         
         
   
         
足利氏館CG、写真  
         
築城年代 平安末期  
         
 足利氏は前九年の役、後三年の役で活躍した源義家の四男源義国が父義家より上野国八幡荘を相続します、その義国の次男義康は下野国足利荘を拝領され足利義康と称して足利氏の祖となりました、義国の長男義重は上野国新田荘を本拠として新田義重を名乗り新田氏の祖となります、現在の足利市鑁阿寺の足利館は大凡この頃に建てられたとされています。  

 
         
 足利義康、義兼  
         
 足利荘を領する義康は鳥羽上皇に所領を寄進して上皇の北面武士として仕える事になります、その後1156年(保元元年)の保元の乱では後白河天皇側に付きます、保元の乱において義康の軍勢は100騎で平清盛300騎、源義朝(源頼朝の父)200騎に次ぐ上皇方の主戦力でした、義康が31歳の若さで死去すると幼少であった義康の子足利義兼が家督を継ぎます、当初義兼は叔父である新田義重の支援を受けています、1180年(治承4年)源頼朝が伊豆で挙兵すと直ぐさま義兼は頼朝に従います、翌年義兼は北条政子の妹北条時子と結婚し頼朝とは近親関係となりました、その後義兼は平家討伐、奥州追討などで戦功を挙げています、1195年(建久6年)義兼は出家して現在の足利市内の在った樺崎寺に隠居します、その時義兼は居館である足利館内に大日如来を奉納して鐘楼、多宝塔、不動堂などを建立しています、これが足利氏の氏時である鑁阿寺のはじまりです、その後1199年(正治元年)義兼は樺崎寺にて死去します。  
   
 (鑁阿寺、不動堂と多宝塔)  

 
         
 足利氏の分流  
         
 義兼の子足利義氏は和田の合戦、承久の乱などで北条氏をよく補佐しました、承久の乱においては三河国の守護職に任命され義氏は子長氏を三河国に居住させます、長氏は吉良長氏と名乗り足利家の御一家である吉良氏の祖となりその長氏の次男国氏は今川四郎と称して後の駿河今川氏の祖となりました。  

 
         
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