関東、温泉と旅行記  小山、佐野方面      
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 小山城  
         
         
   
         
 小山城CG、写真1 小山城CG、写真2  
         
 築城年代 平安末期  
         
 小山氏は藤原秀郷の流れである武蔵国太田郷の太田氏を祖とします、その太田氏が領有していた下野国小山荘に政光が12世紀半ば頃に移住して小山政光と名乗ったのがはじまりと云われています、その政光の後妻である寒河尼が源頼朝の乳母となった事から小山氏は鎌倉幕府より重要視される事になります。  

 
         
 鎌倉幕府草創期の小山氏  
         
 1180年(治承4年)源頼朝の平家討伐において小山政光の三男小山朝光が早々に頼朝の陣営に参陣し次いで長男小山朝政と次男小山宗政も参陣して戦功をあげます、また1189年(文治5年)の奥州征伐でも更に戦功をあげて小山氏は頼朝から厚い信頼を受ける様になります、その後小山氏の宗家は長男朝政が引継ぎ次男宗政が長沼氏を称して三男朝光が結城氏と称しました、何れも室町期にまで至る名門氏族となります、また小山氏は山川氏、皆川氏なども輩出して下野国に一大勢力を築きあげました。  

 
         
 小山秀時  
         
 1331年(元弘元年)小山氏当主小山高朝は「元弘の乱」において後醍醐天皇の籠城する笠置城の攻撃や楠木正成の下赤坂城の攻撃で戦功をあげますが新田義貞が倒幕の為に挙兵するとこれに賛同して鎌倉攻めに加わり功をあげ後醍醐天皇より下野国守護職と下野国国司に任命されました、この時高朝は北条家執権北条高時より賜った高時の名をすて秀時と改名しています。 
 1335年(建武2年)北条高時の子北条時行が「中先代の乱」を勃発させ鎌倉に攻入ろうとする所を阻止する為に秀時は武蔵国府中で防戦しますが大敗して討死しました。
 

 
         
 小山氏の乱  
         
 小山秀時の死後小山氏は一時衰退しその間に下野国で小山氏と覇権を争う宇都宮氏が勢力を伸ばします、宇都宮氏と小山氏は領地問題などで小競合いを起こす様になり鎌倉公方足利氏満は両者に対して交戦中止令を出します、しかし氏満は小山氏を廃して宇都宮氏を優遇する態度をとっていた為に小山義政は氏満の命に従わず下野国河内郡裳原で宇都宮基綱と合戦を行い基綱を討取りました、これに激怒した氏満は関東管領上杉憲方を小山氏討伐軍として差向けます、義政は憲方に一旦降伏するも1381年(永徳元年)小山氏の本城である祇園城から思川沿い南3kmにある鷲城に籠城します、しかし此れも氏満の差向けた上杉朝宗率いる討伐軍に破れ降伏しましすがこれで終了したわけでは無く翌年の永徳2年にも義政と嫡男若犬丸は祇園城を焼払い祇園城の近くの粕尾と言う場所に要害を築き籠城します、これに対して氏満はまたも討伐軍を派遣し乱を鎮圧します、義政は自害し若犬丸は逃走して1386年(至徳3年)反幕府派である南朝方の武士に呼びかけ祇園城に籠城しますがこれも失敗に終わります、その後若犬丸は小田氏などの反体制派の反乱に幾度か加担しますが最終的に会津にて殺害されました。  

 
         
 結城氏による小山氏の再興  
         
 義政と若犬丸の死により小山氏は断絶となります、此れにより氏満は小山氏の分流で結城基光を下野守護職に任命し更に基光の次男結城泰朝に小山姓を名のらせて小山氏を再興させます、その後氏満が死去して子息足利満兼が鎌倉公方に主任すると鎌倉公方を支える名族である「関東八屋形」を(宇都宮氏、小田氏、佐竹氏、結城氏、小山氏、千葉氏、那須氏、長沼氏)の八家に定めて各氏族の在住する国の守護職はその国の八屋形の氏族から選出する事を定義します、小山氏もこの関東八屋形に含まれる名族となっていますがこの時点で小山氏の宗家は既に断絶して結城氏による派遣体制となっています。  

 
         
 結城の合戦と享徳の大乱  
         
 1437年(永享9年)室町幕府と鎌倉公方足利持氏が対立して永享の乱が起こります、結城系小山氏の当主小山持政は主家結城氏の足利持氏支持に反発して室町幕府方につき結城氏と対立します、永享の乱鎮圧後の1440年(永享12年)結城氏朝は持氏の遺児をかくまい結城城に籠城(結城氏の乱)しますがこの時も持政は幕府軍に見方して結城氏と戦っています、持氏の遺児であった鎌倉公方足利成氏は関東管領山ノ内上杉氏と対立して1454年(享徳3年)に享徳の大乱が勃発します、この大乱で持政は一旦は足利成氏に付きますが最終的に関東管領方へと転じています。  

 
         
 小田原北条氏との対立  
         
 小山持政以後の小山氏は幾度か血筋が絶えて同属の結城氏、山川氏などから養子が入ります、1546年(天文15年)北条氏康が河越夜戦で関東管領山ノ内上杉氏、扇谷上杉、古河公方足利氏の連合軍を打ち破ると小山氏家中も北条派と反北条派の二派に意見が分かれます、1561年(永禄4年)長尾景虎(上杉謙信)が小田原北条氏打倒と関東管領就任の鶴岡八幡宮参拝をかねて関東に下向すると関東の諸氏たちは景虎に賛同します、小山氏も反北条氏派であった当主小山高朝により長尾景虎に従軍します、その後小田原北条氏と越後上杉氏が講和を行い同盟関係を結ぶと高朝の子で小山氏の当主となっていた小山秀綱は反北条連合を組んでいた佐竹氏、宇都宮氏、里見氏の同盟関係に加わります、しかしその後も小田原北条氏の勢力は拡大し1575年(天正3年)秀綱の守る小山祇園城は北条家の攻撃により落城しました、落ち延びていた秀綱は城代となった北条氏照の配下として小山城に戻りますが1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐で小田原北条氏が滅びると小山氏の旧領は全て召上げとなります。  

 
         
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