(小山城北部)
東の郭
ニノ郭の北側は中央の空堀を境目に東西二区画に分けられた郭となっています、ニノ郭の木橋はその東側の郭へ繋がっています。
西の郭
二区画の郭の西側の郭へは東側の郭から橋で渡ります、西側の郭には空堀に向かって下る小口の様な地形も見られますがこれは不明です。
(西側の郭の小口)
東側の郭から橋を渡り西側の郭の小口を抜けると櫓台の土塁があります。
(西側の郭の小口付近の櫓台)
北端の郭の空堀
東西二区画の郭と小山城の北端の郭を仕切る空堀は深く掘り込まれ堀底道であったのか「折」が施されています、この空堀に入り込んだ敵に対して上記西側の郭の櫓から強力な横矢がかけられる様になっています。
小山城北端の郭
小山城の北端の郭は大手郭です、宅地化により大半が掘削された状態になっていますが大手である北側から西側にかけて土塁が設けられていました、またこの郭内に角馬出が存在していたと云います。
(北端の郭の土塁)
北端の郭には小山氏の菩提寺である天翁院が在ります、天翁院は1155年(久寿2年)に小山政光により開基され1472年(文明4年)に小山高朝により此処へ移されたと云います、その頃には既にこの郭が存在していたのでしょう。
(天翁院)
大手口と空堀
大手口は天翁院の脇に位置しています、大手の空堀は他の郭の堀と比較して幅も狭く深さもさほどありません、当初大手郭である北端の郭は城郭と言うより外郭的な役割であったのでしょう。
(大手空堀)
城下小山宿
小山祇園城の西側は奥州街道が通っていました、此処奥州街道と結城街道が交差する小山城の西側には小山宿がおかれ城下の集落や町屋が建ち並んでいました、ただし江戸期の奥州、日光街道とは異なり江戸期の奥州街道は人口の増加に伴い此処より更に西側の小山駅前付近に変更されています。
小山御殿
小山城の南側に徳川将軍の日光参拝時の宿泊施設である小山御殿があります、1600年(慶長5年)徳川家康は会津の上杉景勝討伐の為に小山に布陣しました、此処で家康は石田三成が挙兵した事を知り福島正則、黒田長政ら豊臣恩顧の大名の徳川方への従軍を確認して関ヶ原へ向かいます、所謂「小山評定」です、その話合いが行われたのが後に小山御殿が建てられるこの地であったと云われています。
トップページ 城址 栃木県史跡 小山城 小山城CG、写真1