関東、温泉と旅行記  宇都宮、日光方面      
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 宇都宮城  
         
         
   
         
宇都宮城CG、写真1 宇都宮城CG、写真2  
         
 築城年代 平安末期  
         
 宇都宮城を築城した宇都宮氏は関白太政大臣「藤原道兼」の流れを汲む藤原宗円を祖としています、1051年(永承6年)におきた前九年の役の功により宗円は下野国守護職、下野国一ノ宮別当職に任命されます、その宗円の孫である宇都宮朝綱から宇都宮姓を名乗りました。  

 
         
 宇都宮朝綱  
         
 宇都宮姓を名乗った朝綱とその氏族は鎌倉幕府の草創の時代に源頼朝の臣として活躍します、1183年(寿永2年)志田義広(源義広)は常陸国で足利俊綱、足利忠綱と組んで頼朝討伐の兵を挙げます、それに対して頼朝命により小山朝政は義広と領国近くの野木宮で交戦します、朝綱の弟「八田知家」と従弟にあたる宇都宮信房は小山朝政を援助して功を挙げてます、更に1189年(文治5年)朝綱は宇都宮一門を率いて奥州征伐に参陣して戦功を挙げ頼朝より「坂東一の弓取り」と賞賛されるにいたり翌年には頼朝の上洛にも参列しています。  

 
         
 南北朝期の宇都宮氏  
         
 1333年(元弘3年)宇都宮氏の9代当主「宇都宮公綱」は元弘の乱で楠正成と四天王寺で対陣しますが両者互いの武勇を恐れて退きます、その後公綱は千早城の包囲戦に加わりますが正成のゲリラ戦術に苦戦を強いられました、六波羅探題が足利尊氏により攻め落とされると公綱は後醍醐天皇に降伏します、南北朝期に公綱は後醍醐帝に従い南朝方として活躍しますが10代当主「宇都宮氏綱」は尊氏に従い北朝方に転じました、1349年(貞和5年)尊氏と弟の足利直義が内紛を起し観応の擾乱が勃発した後も氏綱は尊氏に従って武功を挙げて越後国と上野国の守護職に任命されましす、ところが関東の統制権を委任されていた尊氏の四男の鎌倉公方足利基氏は上野、越後の守護職を宇都宮氏から剥奪して旧反尊氏勢力であった上杉憲顕に与えました、此れに激怒した氏綱の家臣である芳賀禅可は憲顕を討ち取る為に出陣しますが途中武蔵国苦林野(埼玉県入間郡毛呂山町)で基氏の軍勢に撃退され氏綱は謝罪を申し入れる事になりました。  

 
         
 乱世の宇都宮氏  
         
 宇都宮氏17代の当主「宇都宮成綱」の時代宇都宮氏家中は当主に対する反発勢力が横行していました、そこで成綱は家臣である武茂氏のクーデターを鎮圧し更に1512年(永正9年)成綱と対立関係の家臣芳賀高勝を殺害し芳賀氏の勢力をおさえます(宇都宮鎮乱)、またそれに平行して成綱は古河公方足利政氏と子息「足利高基」との対立で高基を支持して政氏を支持する佐竹義舜を1514年(永正11年)の竹林の戦と1516年(永正13年)の縄釣の戦で撃破して関東においての宇都宮氏の勢力を盤石なものにしました。
 成綱の子「宇都宮忠綱」はあまり華々しい活躍はありませんでした、更に21代当主「宇都宮広綱」の頃には家臣壬生綱芳に宇都宮城を一時占領されるなど宇都宮氏は弱体化しつつありました、22代当主「宇都宮国綱」の時代宇都宮氏は小田原北条氏の侵攻や下野国内での内乱により本城でる宇都宮城を退去する状況となります、しかし転機が訪れます、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐が実行されると国綱は豊臣方へ参陣し武州忍城の水攻めなどに加わり秀吉より18万石を賜りました、ところが1597年(慶長2年)秀吉は国綱を大名から突然改易してしまいます、その理由は幾つか語れていますが太閤検地の際に石高の不正報告が発覚した為と云われています、此れにより平安末期より継続していた宇都宮氏は終焉となりました。
 

 
         
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