関東、温泉と旅行記 | 多摩方面 | |||
築城年代 1582年(天正10)頃 | ||||
1569年(永禄12年)甲斐武田軍は小仏峠から八王子へ侵入します、更に別働隊が滝山城へ攻撃をかけ北条方は苦戦を強いられます、この事件から北条氏照は滝山城より堅固な城山で、なおかつ甲州からの道筋のおさえと成る城を築きあげる必要にせまられました、そこで完成したのが八王子城だったのです。 | ||||
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築城に至るまで | ||||
八王子城の完成の時期は正確には定かでないのですが1578年(天正6年)には既に着工していたそうです、当初小仏からの武田軍の進入を予想して築きあげられた八王子城ですが最初は現在の遺構の様な大要害では無く滝山城の出城であったのかも知れません?何れにせよ1590年(天正18年)の段階で現在見る八王子城のかたちに造り上げられていったのです。 | ||||
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八王子城、その短い生涯 | ||||
さて八王子城は完成されたのですが時代の流れは大きく変わり甲斐武田家は滅び去り、織田信長は本能寺で明智光秀に殺されて豊臣秀吉が政権を握ります、秀吉が九州を制圧すると次に関東の覇権に乗り出し北条氏も西国方の侵入に備える中で八王子城の役割も同様に変化していったのです。 1589年(天正17年)北条方の猪俣邦憲と真田氏の間で名胡桃城(上野国)を巡って一悶着あり豊臣秀吉は北条氏政に対して上洛を命じますが氏政は此れを無視、更に真田氏への攻撃態勢を強化したので秀吉は激怒して北条氏に宣戦布告状を突きつけ北条氏征伐を決意するのです、それに対して北条側は関東総武事例を発給し格支城に防備を強化させ西国からの侵攻に備えたのでした。 1590年(天正18年)豊臣秀吉は小田原城を包囲し、その支隊として上杉景勝、前田利家、真田昌幸の軍勢が上野、武蔵の北条方の支城を次々に落城させて八王子城に攻撃をかけます、八王子城は西国方の大軍に対して城代の横地堅物、中山勘解由、狩野一庵、近藤出羽守以下1000余の兵で防戦し1日の戦いでほぼ全員討死して落城しました、険しい山並みを利用して築かれた堅固な八王子城でしたが城兵の絶対的不足から持ちこたえる事ができなかったのです。落城後、八王子城はそのまま廃城と成り築城から大凡10年余りで城としての生涯を終えたのでした。 |
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